東アジアに広がるペルシャ語史料;日本書紀にもイラン系人物渡来の記録あり
ペルシア語による碑文などの歴史資料が発見されている範囲は、海のシルクロードの出発点である中国の広州や泉州といった港を最東端とし、そこから東南アジアの海沿いに南インドを通り、ペルシャ湾のスィーラーフ港、さらには現在タンザニアの一部となっているインド洋の島・ザンジバルおよびアフリカにまで及びます。
オリエント学者らは、イランのサーサーン朝時代に、同国の文化・文明が東アジアとその東端の日本に最も多く伝えられたと考えています。さらにサーサーン朝の滅亡後も、多くのイランの芸術家、商人、一般人が東アジアに赴き、その文化や表現様式の影響が日出づる国・日本にまで及ぶこととなりました。
今世紀に中国のトルファンで発見された多くの貴重な歴史文書の中には、日本を含めた当時の東アジアへイラン文化が伝わっていた証となる、古代ペルシア語におよる古い聖書もあります。
また、元正天皇時代の養老4年(西暦720年)に完成したとされる日本初の勅撰国史、 『日本書紀』には、西暦7世紀当時に波斯国(=ペルシア)からイラン系の人々が来日し、多くの織物、ガラス、金属細工、その他の手工芸品を日本にもたらしたという記述があります。現存するこれらの宝物の一部は、サーサーン朝時代 (西暦6世紀~7世紀) の渡来品として、東京国立博物館をはじめとした複数の博物館に保管されています。
法隆寺や正倉院の銘文の研究に長年携わってきた東野治之(とうの はるゆき)奈良大学名誉教授は、「法隆寺献納宝物 香木の銘文と古代の香料貿易ーとくにパフラヴィー文字の刻銘とソグド文字の焼印をめぐってー」という論文において、法隆寺収蔵の白檀香にある刻銘と焼印が、中期ペルシア語および中期イラン諸語を書き表すのに使われていたパフラヴィー文字とソグド文字であり、これらの香木が日本にもたらされる過程にペルシア人・ソグド人の中継貿易活動があったことを指摘しています。
日本ではこのほかの史料においても、ペルシア語やイラン文化に関する記載が発見されています。