May 14, 2024 14:23 Asia/Tokyo
  • 西アジアで植民地主義ゲームを打ち砕いたイラン・イスラム革命
    西アジアで植民地主義ゲームを打ち砕いたイラン・イスラム革命

世界の大国はイラン・イスラム革命が起きた際、同国に介入できなくなっていたことからすぐに、この革命が世界的なメッセージを持つものだと理解しました。解放をもたらす反搾取の革命を開始するという革命指導者らの考えは、世界で圧政に苦しめられ希望を無くしている諸国民の心に光を灯し、イスラム教徒・非イスラム教徒を問わず、自由を求める人々にとっての見本となりました。

多くの西側当局者やアナリストらは、イランでイスラム革命が勝利したその翌日から、さまざまな演説や分析において、この革命はほどなく倒れることになると保証していました。

現在浮かぶ疑問は、イラン・イスラム革命に対するこれほどの注目はどこから来ていたのだろうか、ということです。この疑問に答えるにはまず、この時代を振り返ってみる必要があります。

アメリカは当時、世界屈指の大国として西アジアという重要かつ戦略的な地域で友好政策を取っていましたが、その支柱となっていたのが、傀儡政権であるイランのパフラヴィー王朝でした。トルコでは、アタテュルクが啓蒙の名の下に脱イスラムおよび宗教色排除の計画を開始しており、パフラヴィー王朝もこれに倣ったため、西側の政治家や理論家が抱いていた、宗教・宗派が存在せず最も植民地主義的な計画の実施に向いた地域を作り出すという野望は、実現しつつありました。

 

パフラヴィー王朝は、西側諸国が命令した政策をそのまま実行して彼らの利益を追求した


地域のイスラム諸国民は、このような状況に加えて、政府が抑圧的な専制を行うという、最悪の時代の中にいました。この時代に一部の国々で起きた限られた数の民衆運動は、大きな敗北に終わり、革命家たちが弾圧される結果となっていました。

ここで指摘される最も重要な点は、西アジアがすでにイスラム革命勝利の約30年前から、シオニスト政権イスラエルという危険な存在と格闘していたことです。この政権は、欧米の腐敗した権力者の計画の下に出現し、ナイル川からユーフラテス川にわたるイスラム世界の中心部を攻撃の対象とするという考えとともに、イスラム教徒をそれまで以上に囚われた状態にしました。

西側との連帯の否定を主要スローガンとするイスラム革命が勝利したのは、このような状況の中でのことでした。革命の勝利は、宗教的権威であるホメイニー師の指導の下にあらゆる階級の人々が役割を担い実現したものですが、同師は革命勝利のずっと前から、非合法なイスラエル政権の樹立について、次のように警告していました。

「私はイスラム法の義務に従い、イラン国民と世界中のイスラム教徒に対し、危険が迫っていることを伝える。コーランとイスラム教は今、危険にさらされている」

イランに介入できなくなっていた世界大国はすぐに、イスラム革命が世界的なメッセージを持つものだと理解しました。解放をもたらす反搾取の革命を開始するという革命指導者らの考えは、世界で圧政に苦しめられ希望を無くしている諸国民の心に光を灯し、イスラム教徒・非イスラム教徒を問わず、自由を求める人々にとっての見本となりました。

この40年間に西アジア地域が経験してきた事柄は全て、次の2つの論理の対立に基づいています。それは、西アジアの諸国民に依拠し、変革を生むイスラム教の教えにより彼らを覚醒させるべく努めるという論理と、西側の命令の実行者たる傀儡政権に西アジアを支配させることで新たな秩序を作り出そうという、外から持ち込まれた論理です。

西側は西アジアについて、ある時は同地域の改革計画「大中東圏構想」を、またある時は新たな指導者らに外交・経済の構造改革を主導させる「新中東戦略」を口にし、さらに、ある時はテロとの闘いという口実でテロ組織を設立し、またある時は自由という名目で自身の傀儡だった政権や勢力を打倒すべく欧米からの軍隊を派遣しました。しかし、このような構想や軍事行動はすべて、「諸大国は今日、西アジア地域で何もできない」という現実を示す結果となっています。

彼らは70年前、脅迫と金銭によって神聖なパレスチナの地に偽りの政権を樹立させ、ヨルダン川から地中海までを、自身の植民地主義・覇権主義的な考えの支配下に置きました。しかし、彼らは今日、イスラム革命という光の下で育った反植民地主義勢力から身を守るべく、自身の周囲に壁を築くことを余儀なくされています。

 

現イスラム革命最高指導者ハーメネイー師は、今年初めのハマス関係者との会談で、自国がパレスチナとガザの人々への支援を一切惜しまないと語った


様々な装備や施設を持つアラブ諸国の軍がシオニスト政権イスラエルに対して喫した連敗を、この数十年間に抵抗の枢軸が収めた成功と比較しみると、イラン・イスラム革命の重要性と、この革命がイスラム世界の最優先問題であるパレスチナについての敵側の計画を変更させる要因となったことは、はっきりとしています。

1979年2月にイラン・イスラム革命が勝利を収め、それに続いて「圧政下にあり支援が必要な全ての場所に、我々はいる」をスローガンとするイスラム共和国が樹立されなければ、イスラム教徒にとって最初の礼拝方向であったパレスチナ・エルサレムのアクサー・モスクはその歴史以外に跡形も残らず、地域がイスラエル政権の支配を受けることになっていたと言っても、決して誇張ではないでしょう。

今日、圧制者による抑圧を容認せずにその被害者の支援を自身の義務と見なす、神の唯一性の光の下にあるイスラム革命の考え方によって、西アジア地域の人々は広く覚醒し、そのために植民地主義が深刻なダメージを受けているのです。

 

この記事は、モハンマドメフディー・ラヒーミー大統領広報室長がメフル紙に寄稿した「西アジア;イラン・イスラム革命がなかったら?」を転載したものです。

 

 


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