イランではなぜ11月4日は「児童の日」なのか?
(last modified Mon, 04 Nov 2024 06:56:46 GMT )
11月 04, 2024 15:56 Asia/Tokyo
  • 抗議デモに集まった児童らに催涙ガスが浴びせられた:1978年11月4日、テヘラン大にて
    抗議デモに集まった児童らに催涙ガスが浴びせられた:1978年11月4日、テヘラン大にて

イランでは毎年11月4日(今年は3日)にあたるイラン暦アーバーン月13日を「児童の日」と定めています。これは1978年のこの日に、当時のパフラヴィー王政に抗議した児童らが治安部隊により多数射殺された出来事にちなむものです。

【ParsTodayイラン】事件から3カ月あまりが経過した1979年2月11日にイスラム革命は正式に成就し、パフラヴィー王政は崩壊しました。革命政権はこの事件を記念して毎年この日を「児童の日」とすることを決めました。

 

デモ隊を鎮圧するために動員された王政側の治安部隊:1978年11月4日、テヘラン大にて

 

1978年11月4日(イラン暦1357年アーバーン月13日)の出来事

イラン国民によるイスラム革命が、ホメイニー師の指導の下で運命の日を迎えつつある中、老若男女問わずイラン国民のあらゆる階層が歴史に残る役割を果たそうと、聖なる義務の履行に努めていました。しかしこうした中、小中高生や青少年の間には別の雰囲気が立ち込めていたのです。

歴史が動いたその瞬間、即ちイラン暦1357年アーバーン月13日(1978年11月4日)の朝、大勢の児童らが抗議の声を届けようと自らの学校を休校にし、テヘラン大学に向かって行進していました。これらの児童は集団で大学の敷地内に入り、学生や他の集団とともに学内の芝生に集結しました。

午前11時、抗議を叫ぶ児童らに向かって治安部隊が催涙ガスを噴射しました。児童らは呼吸困難になりながらも、「神は偉大なり」の文句を連呼して当時のパフラヴィー独裁王朝政権の武装工作員らを震え上がらせたのです。この時、銃撃が始まり、罪なき若者や十代の青少年たちが次々と血しぶきを上げて倒れました。最終的に、この日には56人が殉教したほか、数百人が負傷しました。

 

デモ隊を鎮圧するために動員された王政側の治安部隊:1978年11月4日、テヘラン大にて

 

覇権主義との戦いで常に積極的な役割を果たした学生

事件後、当時フランスに滞在していたホメイニー師はメッセージの中で、「親愛なる諸君、あと少しの辛抱である。最終的な勝利が近づいている。神は忍耐強い方々とともにあられる。今日のイランは、何者にも隷属しない自由な人々の場である。私は遠く離れたところから、諸君に希望の視線を注いでいる。私は、諸君の自由と独立の声を世界の人々に届ける」と呼びかけました。

 

アーバーン月13日が伝えるメッセージ

11月4日に当たるイラン暦アーバーン月13日は、イスラム革命前のイランの親愛なる学生らの英雄伝や自己犠牲そして、自己献身を想起させる日です。このため、この輝かしい日は、革命の勇敢な若人らの記憶が永遠に残り、世界中のすべての学生にとって、略奪的な超大国と臆することなく戦い、屈辱を受けながらの生存よりも尊厳を優先するという忘れがたき教訓となっているのです。

 


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