イラン民衆が米大使館を占拠した理由とは?
1979年11月4日に起きた在テヘラン米国大使館占拠事件の最も重要な成果の一つは、外国の大使館というこの場所が実際にはクーデター計画の一大拠点であることを示す証拠文書の発見と公開でした。
【ParsTodayイラン】イラン暦1358年アーバーン月13日に当たる1979年11月4日、同年2月のイスラム革命を主導したホメイニー師の方針に従う多数の学生らが明確な目標と綿密な計画に従って、いわゆる「スパイの巣窟」として知られた在テヘラン米国大使館を占拠しました。事件当日、多数の学生らが大使館に侵入し、米側狙撃兵とのしばしの小競り合いの後、大使館の建物内に入り込むことに成功しました。この出来事の最も重要な成果の1つは、イラン革命政権の転覆計画に関する文書が多数発見、公開されたことでした。
大使館占拠に至る4つの背景と要因
1. 国外逃亡した国王を匿った米に対する報復
学生らのこの行動の主な理由の一つは、アメリカが当時のイランの独裁者たるパフラヴィー国王の亡命申請を受け入れたことでした。ペルシャ語でシャーと呼ばれる国王の逃亡後、アメリカは彼を古くからの同盟者として受け入れ、匿ったのです。この行動はイラン世論において、アメリカによる専制君主への支持の表れ、及び旧パフラヴィー王朝政権の復活を狙った工作とみなされ、イランをめぐるアメリカの思惑に対する深い不信感を生み出しました。
2. 革命転覆を狙った米の陰謀の阻止
米大使館占拠の中で入手された一連の資料文書からは、一部の革命家が抱いた疑念や思惑が正しかったこと、そしてこの場所が反革命集団を指揮し、イランでの政権打倒・破壊計画を準備するための作戦基地として機能していたことが明らかになりました。また、流出した文書は、同大使館と破壊集団との間に広範な関係があることを裏付けるものでした。
3. 騒乱サイクルの発生の阻止
多数の報道によれば、在テヘラン米大使館は、分離主義者やテロ集団への支援によりイラン国内の治安や統制を脅かし、イランを一連の暴動に巻き込んで、精力的に西側諸国の介入の根拠を作ることに熱を上げていました。
4. 1953年8月19日の米によるクーデターが起こした歴史的恐怖
これら3つの要素もさることながら、イラン人の意識の中には1953年当時のモサッデグ政権に対する米英のクーデター、そしてパフラヴィー国王の政権復帰という苦い記憶が根強く残っていました。この事件は米国の介入政策とイランの主権侵害の象徴とみなされていました。学生や他の革命家らは、米国が大使館内の職員に破壊活動を続けさせることで、イラン前王朝政権とつながりのある腐敗した治安部隊・軍部との間でスパイ網構築を目論んでいると考えていたのです。
大使館占拠がもたらした結果
大使館占拠後、一連の出来事が勃発しました。ホメイニー師はこの行動を「第二の革命」とし、「イランは世界的な覇権主義国に断固として対抗している」と強調しました。イランとアメリカは国交を断絶し、これを受けて米国はイランに対し経済制裁を発動し、イランの金融資産を凍結したのです。
また、大使館内で破棄されていた資料文書が復元された結果、アメリカの思惑の一つがイスラム革命の指導者、ホメイニー師の暗殺であることが明らかになりました。この事件は、人質解放を目指すアメリカの努力と西側諸国からの圧力にもかかわらず、イラン・イスラム革命の歴史に残る転換点となりました。つまり、これを境にイランは自らの国運に対する大国の支配に挑戦状をたたきつけ、独立の道を歩むことに成功したのです。
占拠から444日後、ホメイニー師の許可とイラン国会の決定を受けて、アルジェリア政府の仲介により当時のイラン政府当局者らと米側が会談し、アルジェリア協定を締結して人質を解放しました。
米イリノイ大学教授の政治学の研究者でもあるフランシス・アンソニー・ボイル氏は、著書『国際政治と国際法』において、イラン人学生による大使館占拠事件を擁護し、この行動を国連憲章第51条に基づくイランの法的自衛権であると主張しました。ボイル氏はまた、学生らによるこの行動を、侵略の阻止および、米国による新たなクーデターの試みを防ぐものだとしています。
大使館占拠事件以降、イランは米国との関係を断絶し、大使館設置を求める米国の要請に同意しませんでした。一部の専門家は、米国がイラン政権打倒に失敗した理由の一つが米国大使館の不在にあるとの見方を示しています。