イスラム革命の指導者ホメイニー師とは?
故ルーホッラー・ホメイニー師は、1979年に勃発したイランイスラム革命の指導者で、イラン・イスラム共和国の建国者でもあります。
ホメイニー師は、イラン暦1281年メフル月1日、即ち西暦1902年9月24日に、現在のイラン中部マルキャズィー州の町ホメインにて、シーア派第7代イマーム、ムーサーの子孫を称し預言者ムハンマドの直系子孫セイエドの家系に、出生名ルーホッラー・ムーサーヴィーとして生誕しました。
彼は生後5ヶ月の時に法学者であった父親を失ったことから、母親とおば達、兄などによって教育を受けています。その後、幼少期に亡くした父に倣って現在のイラン中部の町アラークで学んだ後、イランのシーア派の聖地ゴムにてイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者を意味するアーヤトッラーの称号を得ました。
ホメイニー師は学術的、文化的な活動と同時に、政治的な活動を開始しています。1963年には、イランへのアメリカの干渉と当時のイランのパフラヴィー独裁王政に対するホメイニー師の闘争が高まり、これによってホメイニー師は、同王朝政権によってまずトルコに、その後はイラクに追放されました。
トルコからイラクのシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、イラン国民に改革を呼びかける傍ら、ここでシーア派のイスラム法学者がお隠れ中の12代目イマーム・マハディに代わって信徒の統治を担うべきだとする、彼自身以前からあったシーア派の理論をさらに発展させた「法学者の統治論(ヴェラヤティ・ファキーフ)」を提唱しました。
しかも、彼はイラクに追放されていた13年間に多くの弟子を教育し、パフラヴィー政権の腐敗した本質とアメリカのイランにおける不当な要求を暴露し、啓蒙的な宣言を発表することで、イスラム革命の勝利の土台を整えていったのです。
さらに、1978年にイラクを離れフランスに亡命した後も、彼は一貫して国外からイラン国民に対し、当時の独裁者たるパフラヴィー国王への抵抗を呼びかけ続けました。
こうしてホメイニー師がフランスから指導した反体制運動はますます高まり、これに耐えかねた国王とその家族が1979年1月16日、エジプトに亡命します。これを受けて、ホメイニー師は2月1日に亡命先のフランスから15年ぶりに帰国し、この日からの「夜明けの10日間と言われる期間を経て、1979年2月11日にイランのイスラム革命は勝利の栄冠に輝きました。
イスラム革命は勝利後も、大国や国内外の革命の敵によりイランイラク戦争などの数多くの陰謀にさらされましたが、ホメイニー師は当時の困難な状況の中で、勇敢にイラン国民を導いていったのです。
イラン暦1368年ホルダード月14日に当たる西暦1989年6月4日、イスラム革命の偉大な指導者であったホメイニー師は、テヘランの病院にて87年の生涯を閉じました。
ホメイニー師の訃報は全世界をかけめぐり、イスラム世界は悲しみに沈みました。
現在、この偉人が埋葬されているホメイニー霊廟はテヘラン南方のベヘシュテザハラー墓地内にあり、イランはもとより全世界のイスラム革命の支持者や関心のある人々にとっての巡礼地に等しい場となっています。