May 29, 2022 21:30 Asia/Tokyo
  • 重信房子氏
    重信房子氏

元日本赤軍の創設者・重信房子氏が20年の刑期を終え、昨日28日、出所しました。重信氏は出所の際、カフィエと呼ばれるパレスチナのスカーフを首に巻き、支持者らの歓迎を受けました。

重信房子氏は現在76歳。1970年代から80年代にかけて、パレスチナ解放の理想を求め各国でゲリラ活動を行いました。彼女の理想のひとつが、日本の帝国主義打倒でした。

重信氏はパレスチナのために自らの命を危険に晒すことも厭わず、女性も抵抗運動や人々の生活を守る運動の前線に立つことができることを証明しました。帝国主義体制との闘いを信条とし、地理的国境をものともせず、自らの目標を達成することに成功しました。

 

生い立ち

重信氏は終戦間もない1945年9月に生まれました。父親は右翼団体のメンバーでしたが、重信氏自身は左翼・反帝国主義に傾倒し、大学では学生運動に参加して名を馳せます。

彼女の最初の反帝国主義運動は、ベトナム反戦運動と日本の資本主義・保守政治に対する抗議でした。日本がアメリカのベトナム戦争を支持したことは、1960年の学生運動の発端となりました。しかし警察により鎮圧されたことで、活動家らは日本国内での革命は不可能と悟り、国外に活動拠点を求めるようになります。

 

日本赤軍創設

日本赤軍は革命思想を持った組織で、学生運動から派生して1969年に創設されました。メンバーは、自らが地域および世界的な覇権を握れると信じていました。日本の警察に国内拠点を襲撃されると、西アジアや欧州に移りました。ドイツやイタリアでは現地の同様の組織と関係を構築しました。日本赤軍は、1967年のいわゆる「第三次中東戦争」で、シオニスト政権イスラエルがパレスチナの占領を拡大したことに怒りを表明し、パレスチナ抵抗戦士や解放運動との協力を開始します。

 

 

パレスチナ解放への闘志

シオニスト政権イスラエルへの抵抗は、世界的帝国主義への対抗の一環でした。そのため重信氏は1971年にレバノンの首都ベイルートに渡り、「マリヤム」という偽名を使ってパレスチナ解放のためPFLP・パレスチナ解放人民戦線に加わります。重信氏はアラビア語が話せず、周りとの意思疎通ができなかったため問題にも直面しましたが、自らの目的の障害にはなりませんでした。

重信氏は、PFLPのメディアセンターで、レバノンの著名な作家で当時PFLP報道官だったガッサーン・カナファーニー氏とともに働きます。そこで映像制作やメディア関連業務に従事します。また、PFLPの多くの文書を日本語に翻訳したりもしました。

ベイルートに1年滞在した後、重信氏は日本赤軍が活動方針を転換し、革命思想から外れたことを理由として脱退し、パレスチナ支援とイスラエルへの抵抗のためレバノンで自らの活動を続けます。

 

 

テルアビブ空港乱射事件

重信氏が指揮した日本赤軍の活動のひとつに、1972年にテルアビブ近郊のロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)で起きた銃乱射事件が挙げられます。

この事件は、日本赤軍の岡本公三、安田安之、奥平剛士の3氏が、エールフランス機で同空港に到着後、手荷物から自動小銃を取り出し、ロビーにいたシオニストらに向けて乱射したものです。これにより26人が死亡、73人が負傷しました。また、3人のうち奥平・安田の2名は死亡し、岡本氏も逮捕され終身刑の判決を受けました。

この銃乱射は、日本赤軍とPFLPの協力により行われ、シオニスト政権に大きな打撃を与えました。両グループは事件後に声明を出し、この攻撃を1948年にシオニストらがパレスチナ人を虐殺したデイル・ヤシーン事件の報復であるとし、作戦名も「デイル・ヤシーン作戦」であるとされました。

重信氏はこの事件で最大のパートナーを失ったことで、日本赤軍の唯一のスポークスマンとして知られるようになり、シオニスト政権による捜査対象となります。そのため潜伏生活を余儀なくされました。

空港乱射事件と岡本公三氏の逮捕から1年後、PFLPは日本赤軍と協力して、日本航空・ボーイング747型機をハイジャックし、岡本氏の釈放を求めて乗客を人質にとります(ドバイ日航機ハイジャック事件)。しかし作戦は失敗に終わりました。

1974年には日本赤軍のメンバー3人がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を襲撃し、大使と外交官らを人質にとります(ハーグ事件)。しかし、ここでも岡本氏の釈放という要求は果たせませんでした。

結局、岡本氏は1985年にPFLPとイスラエルの間の捕虜交換により1150日ぶりに釈放されました。

岡本氏はその後、レバノンに戻り、イスラム教に改宗しました。いまもレバノン国内で、「アフマド・ヤーバーニー」(日本のアフマド)として知られ、首都ベイルート郊外で暮らしています。日本の捜査当局は彼を指名手配しており、レバノン側にも再三身柄の引き渡しを要求していますが、レバノン側は拒否しています。

一方、重信氏はその後、レバノン滞在中にPFLPの幹部と結婚し、娘の重信メイ氏をもうけます。メイ氏はあるメディアのインタビューで、両親の活動内容や反占領運動のため、特に空港乱射事件以降、イスラエル当局が日本人に対して目を光らせていたことから、自らの出自を隠さざるを得なかったと回想しています。

 

逮捕と日本赤軍解散

重信氏は2000年に大阪府内で潜伏していたところを逮捕され、ハーグ事件に関与したとして懲役20年に処せられました。翌年には獄中から日本赤軍の解散を正式に表明し、およそ20年の獄中生活の後、昨日刑期満了で出所しました。

 


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