宗教の主眼は人間の理性
(last modified Tue, 02 Jul 2024 05:42:59 GMT )
7月 02, 2024 14:42 Asia/Tokyo
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    宗教の主眼は人間の理性

過去40年間において、宗教に関する世界レベルでの調査研究は、それまでと比べてより多く注目・歓迎され、徐々に多くの潮流や派閥を有するようになってきました。

宗教

宗教の定義について一部の人々の間では、「宗教とは、人間の洞察の原則について見解を有し、人間の趣向の原則について語り、人間の倫理や人生の威厳を網羅する一連の信念や法規範である」とされています。

言い換えれば、宗教とは個人と人間社会の管理運営、啓示と理性による人々の教育のために彼らが適用できる信条、倫理、そして法規範の集合体だとされています(ジャヴァーディー・アーモリー師、『宗教学』、p.27)。

宗教は人間生活における強い力です。そしてそれは人間と同源であり、人類の歴史を通じて人々の人生に関わってきました。今日、人間が不可避的に宗教的側面を持つということについて多くの根拠と証明が得られており、研究者らの間では全く何の宗教も持たなかった人類は発見されていません。最も原始的な文明とともに複数の宗教が出現し、それぞれが非常に複雑な形で進化・発展を遂げるとともに、人類の生活に深い影響を与えてきました。

イスラム教の聖典コーランのアッ・シューラー(相談)章・第13節には次のように述べられています。「(神は)そなたの利益のために宗教を確立し、それについて預言者ヌーフ(ノア)に助言した。そして、我がそなた(預言者ムハンマド)に啓示し、預言者イブラーヒーム、預言者ムーサー(モーセ)、預言者イーサー(イエス)に命じたことは、そなたが(神に選ばれし)宗教を確立すること、さらにその一部を各人の思惑通り受容、分裂化という事態を回避することである」

 

理性

多くの哲学者の間で信じられているところによれば、人間と他の生き物や動物の主な違いは、その「知性」及び「考察と思考の力」の量だとされています。それは、各人が崇高なる道と行動の道筋において、自分の知性をどの程度活用しているかという事実です。このことは、人間がさまざまな社会で試され、他者によって評価されるための基本的な要素の1つです。

聖コーランは、理性、思考、知力を駆使しない人々を「四足動物でより迷った方向へ導かれた人々」だとしています。これについてコーランのアル・アアラーフ(高壁)章・第179節には以下のように述べられています。

「我々は地獄のために、ジンと人間の多くを創った。かれらは心を持つがそれを持って悟ることなく、目はあるがそれで見ず、また耳はあるがそれで聞かない。かれらは家畜のごときもの、否それよりも迷っている。彼らこそまさに(警告を)軽視する者である」

イスラムの預言者一門の文言によれば、理性は神から見て人間であることの「内なる証拠」とも解釈されます。シーア派の12人のイマームらの伝承集『アル・カーフィー』にも「神が人間としてみなす証拠・証明には、外面的なものと内的な証拠の2つがあります。外的な証拠とは使者、預言者、導師イマームであり、内的な証拠とはまさに賢明さを意味します。

 

宗教と理性

コーランの思想とイスラムの預言者が強調した観点から見た結果、宗教と理性は切り離せないものであり、もし誰かやある宗派が宗教の表向きの慣習をもって理性や思考を放棄したい場合、それは基本的に宗教を理解しておらず、またコーランの聖句に基づいて自らを神の道やその預言者の道筋にあるとはみなせなくなります。

今日のイスラム世界、特にシーア派世界の学者らは、ISISやアルカイダ、ボコ・ハラムなどのテロ組織による運動をイスラムとはみなしておらず、それらを植民地主義の利益のために操作・調整された邪道と見なしています。その主な理由としては、基本的に宗教、特にイスラムは理性や社会的共存を重視することから、理性を欠き反人間的な性質や生活様式を容認しないことが挙げられます。それは例えば、シオニスト政権イスラエルではなくイラクやシリアでイスラム教徒の女性や子供たちと戦ったISISだと言えます。

 

 


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