現在の西アジア紛争の根源、サイクス・ピコ協定
(last modified Sun, 19 May 2024 07:15:06 GMT )
May 19, 2024 16:15 Asia/Tokyo
  • 現在の西アジア紛争の根源、サイクス・ピコ協定
    現在の西アジア紛争の根源、サイクス・ピコ協定

現在の西アジアの危機をより深く理解するには、1916年5月16日にフランス、イギリス、ロシアの間で締結されたサイクス・ピコ協定を詳しく見ていく必要があります。この協定は、その後の西アジアに大きな影響を与え、現在のこの地域における問題の多くの下地を作ることとなりました。

フランス、イギリス、ロシアの植民地主義主要3カ国は、第一次世界大戦中にオスマン帝国が傾き始めた後、同帝国滅亡後の領土分割に関する秘密協定を結びました。その分割方法は、彼らが植民地から得られる利益に基づくものであり、地域の地理的、文化的、民族的な状況が考慮されたものではありませんでした。この協定の骨子はイギリスの西アジア専門家マーク・サイクスとフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ・ピコによって作られ、その名称も彼らの名前から取られました。

西アジアはこの協定によって、現地の人々の意志や希望に一切配慮のない新たな人為的境界線が引かれることとなりました。 1918年11月に第一次世界大戦が終結し、1922年にオスマン帝国が崩壊した後も、西アジア統一ではアラブ諸国の一致団結した独立は実現せず、代わりにイギリスとフランスが、1919年1月に始まったパリ講和会議の議論を経て、「委任統治」という形でこの地域での影響力強化に成功しました。まだ自立しえない人々が居住している地域の統治を先進国に任せるというこの制度によって、西アジアのアラブ諸国は独立が認めることなく、イギリスとフランスの支配下に置かれました。

このように行われた西アジアの分割は、この地域の政治的、社会的不安定の原因となっただけでなく、宗教・宗派の違いによる対立の激化にもつながりました。オスマン帝国の版図であったパレスチナ、ヨルダン、イラク南部、そしてシリアとレバノンの一部は、イギリスとフランスの委任統治下に置かれましたが、地域ではこのような人為的分割のために、その後数十年間にわたり多くの戦争や対立が起きることとなりました。

西アジア専門家であるモハンマドレザー・ハージヤーン氏も、サイクス・ピコ協定が問題となった点の一つとして、植民地主義者による地域の状況の意図的な無視を挙げています。同氏は、この協定の最も重要な部分は、パレスチナを占領しその地の住民の権利を無視することにあり、それがイギリスによるパレスチナの統治につながったと説明しています。

西アジアの大半の国々は現在、サイクス・ピコ協定の影響に未だ苦しめられています。私たちが近年目の当たりにしているトルコ・イラク国境の紛争などは、この協定による人為的分割が遠因となり起きた問題の一例でしょう。

イランに拠点を置くNGO「パレスチナ国防会(Society for the Defence of Palestinian Nation)」のメフディー・シャキーバーイー事務局長も、サイクス・ピコ協定が地域でのシオニスト政権イスラエル樹立の第一歩であったと考える一人です。

同氏はまた、イギリスがイスラエル政権を作った目的は、パレスチナをはじめとした西アジアに眠る石油の利用にあったと指摘していますが、これは1917年11月2日のバルフォア宣言によって実現されることとなりました。

パレスチナでは、イギリスがバルフォア宣言でユダヤ人に同地への移住の根拠を与えたことから、1920年から1948年にかけて、ユダヤ人の人口が急激に増加しました。1917年にパレスチナにいたユダヤ人は全人口のわずか6%でしたが、イスラエル政権が樹立を宣言した1948年には60万人に達しており、これは、約80万人のパレスチナ人難民化へとつながりました。

パレスチナは、2016年に声明を発表し、自国に起きたすべての悲劇の責任はイギリスにあるとした上で、同国政府にこれまでの行為を謝罪するよう求めました。しかし、当時のイギリスのテリーザ・メイ首相はこれに対し、自国はバルフォア宣言を誇りに思っていると答えています。

 

 


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