<評伝>日出づる国の移住者・山村邦子さんを偲んで
(last modified Tue, 05 Jul 2022 03:40:59 GMT )
7月 05, 2022 12:40 Asia/Tokyo
  • 山村邦子さん
    山村邦子さん

突然の悲痛な知らせでした。イランで唯一の、聖なる防衛戦すなわち対イラク戦争での殉教者の日本人生母である山村邦子さんが、この世を去りました。

非常に静かで上品でした。彼女とは、帰宅途中に放送局の送迎車の中で知り合いました。遠くから見れば、彼女はほかのイラン人スタッフと同様しっかり完全に、イスラム教徒女性の装いであるヘジャーブと頭からすっぽりと覆う黒いチャードルを身につけ、ヘジャーブを厳格に守る1人のイラン人に見えたはずです。しかし、近くでよく見ると、彼女はイラン人ではなく、極東から来た女性だということに気づいたでしょう。

故山村邦子氏

彼女は礼儀正しい、口数の少ない女性でした。常に、ほかのスタッフが先に乗り込むまで局の送迎の車の脇に立って待っていました。当時、私は彼女が翻訳原稿の紙を手にしていたのを見たとき、ラジオ番組の翻訳者の1人であるとわかりました。そして私も、それらの原稿の執筆者として彼女と語らい、各番組の内容の質について彼女に尋ねたりしました。

彼女自身、物書きであり、年齢は50を超えていました。彼女は自身が、IRIB国際放送ラジオ日本語の創設当初の数年間に、このメディアの基盤づくりのために活動し、その後も外部専門家として同局と協力してきていると語っていました。

それにしても、彼女の革命的精神は信じがたいものでした。彼女は小さなコーランを持っており、道すがらそれを読み始めました。そして、「コーラン朗読の音声から、それまでに経験したことのない快感が私の生命にみなぎった」と語っていました。時折彼女が口を開くと、イスラムや1979年のイラン・イスラム革命がまるで彼女の存在の一部であるかのようでした。しかし彼女は決して、自身が家族を亡くした母親であり、自分の息子が前線で殉教したことについては語りませんでした。

イランでただ一人の、対イラク戦争殉教者の日本人生母である山村邦子さんが病気のため、今月1日金曜にテヘラン市内の病院で亡くなったというニュースが届きました。彼女の死により、私は彼女の生涯の別の事実を知りました。ここでぜひ、その新事実を皆様にも知っていただきたいと思います。それは、世界の創造主なる神を認識し、神と親密になり、その過程で、1人のイスラム教徒女性の手本そして、自身や社会の運命における責任者となっていった1人の人間の成長や極致への到達を物語っているのです。

昨今において販売数を伸ばしている『日出づる国の移住者』は、ヘジャーブを厳密に守る山村邦子さんの回想録です。著者は、対イラク戦争関連の著作を執筆しているハミード・ヘサーム氏で、彼は広島でのある会合に参加した際に山村氏に同行し、影響力あふれる彼女の活動や行動に魅せられたと言います。山村さんは、自ら次のように語っています。

「自分の生涯という物語が、いつの日か書籍という形で出版されることになろうとは、決して考えたことはありませんでした。それはもし自分が家族とともに日本にとどまっていたなら、完全にごく普通の人生を歩んでいたはずだからです。しかし、1人のイスラム教徒のイラン人男性と知り合ったことが、私の人生を大きく変え、私は彼により未知なる新世界へと足を踏み入れることになりました」

 

ある日、1人の重要な外国人の賓客としてイランの土を踏んだ女性は、この国の文化や宗教的信条に溶け込み、イスラムの信条を伝播しイスラム革命の価値観を維持する現場の兵士となったのです。彼女の回想録『日出づる国の移住者』は、一生涯を聖なる理念の具現にささげていた女性たちの努力を物語っています。また、自ら武器を手に取らずとも、英雄伝を生み出した女性たちの生涯を描いています。それではここで実際に、『日出づる国の移住者』の一部をご紹介してまいりましょう。

 

山村邦子は、日本のある仏教徒の家庭に生まれ育ち、ほかの普通の日本人の若い女性と同様に、茶道や生け花を習っていた。しかし、日本では戦争が人々の暮らしに暗い影を落としており、こうした趣味は忘却されつつあった。彼女は20歳のときに、あるイラン人青年と知り合い、彼のイスラム的な性格の影響を受け、イスラムに入信することになる。彼女は、イスラムの聖典コーランの章の1つ・サバー章にインスピレーションを受け、自らのイスラム名にサバーという名を選んだ。彼女は、自らの人生における一大変化について、次のように語っている。

“あの日、私はある英語教室に足を踏み入れた。そのとき、2人の外国人がいるのが目に付いた。それは、1人の外国人と連れ立った1人の新しいメンバーだった。しかし、そのときは何の好奇心も抱かなかった。授業が始まり、参加者は全員、講師の講義内容に神経を集中させていた。そして正午ごろ、授業の最中にその外国人ゲストはその場から立ち上がり、教室の片隅に行って体をかがめたり、また立ち上がったりするとともに、何かをつぶやき始めたのである! そのときはもう、もはや誰も授業など聞いておらず、我々全員の目が驚きのあまりこの外国人に釘付けになり、皆が彼を指差して、いったいこの人は何をしているのか、彼は頭がおかしいのではないか、などとささやきあっていた。その日、私たちは彼の家に押しかけ、質問攻めにした。その外国人男性は次の日も英語教室にやってきた。そして私たちも昨日の出来事について質問を浴びせ始めた。英語に完全に精通していたその彼は、こう答えた。

「私はイスラム教徒のイラン人である。昨日私はここで礼拝を行っていた。礼拝とは、私たちの宗教における一種の宗教的義務行為であり、また神に対する一種の感謝でもある…」

その日まで、私たちにとってイランという国の名は石油ぐらいのものを連想させるに過ぎなかった。イランという国がどこにあるのか、またそこの国の人々がどういう信条を有しているのかなど、全く知る由もなかった。我々はイスラムについても全く知らなかった。あの出来事により、私たちは好奇心が沸き、イスラムについてもっと知りたいと思うようになった。後になって、このイラン人男性がアサドッラー・バーバーイーという名であることを知った。英語教室では、またもあの出来事が繰り返され、そしてこの出会いが私の運命を変え、彼は私に求婚してきたのである”

ありし日の山村邦子氏

山村氏は、仏教徒である自分の家族が独自のこだわりを持っていることを知っていた。彼女は次のように続けている。

”私の父はこの問題に強く反対していた。なぜなら、私の父をはじめ、日本人の多くは外国人イコールアメリカ人だという思い込みがあり、我々は過去に対日戦争の相手となったアメリカ人に関しては、犯罪や腐敗という側面しか見ていなかった。しかし、父親の否定的な反応にも、バーバーイー氏は屈しなかった。結局父は承諾したが、それは結婚してイランに行ったなら、そこでの生活がどんなに苦しく困難なものであろうとも、決して帰国するなどと考えてはならない、という条件だった。私はこれを承諾した…”

イスラム革命の勝利後間もなく、イラクがイランに戦争をしかけてきた。サバー・バーバーイー氏(イランでの山村氏のフルネーム)には当時3人の子供がおり、彼女は次のように語っている。

“当時、長男のサルマーンと次男のモハンマドは、モスクに集まっていたほかの子供たちとともに、近隣の石油缶を集め、あちらこちらへ行っては石油を探してきた。私と娘も負傷者のために布やシーツを用意したり、火炎瓶を作ったりと、革命を助けるために必要なあらゆることを行った。不思議なことに、恐れなど全くなかった。人々がそうやって自己献身しているのを目の当たりにしたとき、私は自分たちがいつか勝利すると確信した。そして、最高指導者の役割がいかに重要なものであるかを悟った。もし、当時のイスラム革命最高指導者ホメイニー師と彼の行進がなかったなら、民衆の革命は勝利には至らなかっただろう。私たちの周辺の国やそれらの国の革命の運命に視点を移せば、この問題がいかに重要なものかが分かるのではないか”

サバー・バーバーイー氏は、イスラム革命とその理念に対する深い共感を抱いていた。この共感のクライマックスこそが、実子のモハンマド氏を前線に送ったことである。彼女はこれについて次のように述べている。

“わが子モハンマドは、一切言い訳をしなかった。清楚を好み、常に白か灰色の服を身に着けていた。彼が色鮮やかな服を着ているのを、誰も見たことがなかった。彼は常に白い運動靴をはき、破れるまでは新しい靴を履かなかった。彼の品性や宗教心、清楚さは、1963年におけるホメイニー師の歴史に残るせりふを想起させる。その文言とは、我が兵士たちが揺りかごの中にいる、というものだ。私は、わが子モハンマドこそ、ホメイニー師がその出現の吉報を告げた兵士の1人ではないかと考えていた。モハンマドはそのとき18歳だった。ホメイニー師は、若者が前線を埋め尽くすとのメッセージを発信していた。息子は、自分も前線に赴きたいと告げてきた。私もそれに全く反対しなかった。なぜなら、イスラムの視点では子供は神からの預かり物であり、神に返されるものであることを体得していたからである。父母の責務は、子女を正しく教育し、しつけることである。私は、もしわが子が神の道を選んだなら、それを妨害してはならないことを学んでいた。もっとも私は、自分の子供を前線に送ることがどういうことか知らなかったわけではない。なぜなら、当時大学生だった長男サルマーンがモハンマドより先に前線に赴き、負傷していたからである。結局、モハンマドは一度西の戦線に赴き、大学入学試験を受けに戻ってきた。彼は入試を受けた後、再度出征する決意を固めていた。彼は最後の手紙の中で、『自分の最後の血の一滴まで前線に残ることを決意した。この祖国はすべて殉教者の地にあふれている。自分はここを離れることはできない』と綴っている。モハンマドは1983年4月11日、『夜明けの作戦』においてその望みがかなえられ、イラク軍による榴散弾の攻撃の結果殉教した。彼の殉教後、大学入試の結果が発表され、彼がテヘランにあるエルモ・サンアト大学の冶金工学学科に合格していたことを知った”

バーバーイー氏はさらに、次のように続けている。

“モハンマドの殉教により、テヘラン市南部のベヘシュテ・ザハラー墓地へに私たちは頻繁に行き来した。そこで、ほかの人々の墓石を見たとき、故人の名前の脇には父親の名前だけが刻まれているのに気づいた。私は夫に不満を漏らし、人間は誰でも1人の父親と母親の子供なのに、この世を去るときはなぜ墓石には父親の名前だけが刻まれるのか、母親の存在はどうなるのか、モハンマドは私が生んだ子なのに、と抗議した。すると夫は、お前の言うとおりだ、と言った。私たちのこのやり取りの結果、すばらしいことが起こった。現在、モハンマドの墓石はおそらく、父親の名に加えて母親の名も刻まれている唯一の殉教者かもしれない”

故山村氏と殉教した息子モハンマド氏

殉教者の母親であるバーバーイー氏はこう語っている。

”これまでのすべての年月において、私はいかなる助力も惜しまなかった。学校での芸術教育やテヘラン大学での日本語教育、イスラム文化指導省での翻訳業務、メッカ巡礼での伝道など、数多くのことに携わってきた。しかし、これらのすべての活動の中でも、テヘラン平和博物館での活動は、また別の哲学を物語っている”

テヘラン平和博物館のモハンマドレザー・タギープールモガッダム館長が次のように語っているのも、このことが理由だろう。

“当館は、戦争での化学兵器使用の結果や、世界への平和・友好の文化の伝播を目的に設立された西アジア初の平和博物館である。写真に加えて、動画やメモ、生々しい証拠資料がこの博物館には展示されている。それらは、化学兵器による負傷者あるいは、戦争での殉教者の遺族らから提供されたものである。そうした中でも、バーバーイー氏は価値ある史料的存在で、日本人、かつイスラム教徒で殉教者の母親としてテヘラン平和博物館の成功の秘訣であり、遺族らと良好な関係・交流を維持している。彼女は17年前から、化学兵器犠牲者支援協会の会員となっており、我々がここに意味ある存在・参加を果たすための意思や動機付けを与えてくれた。実際に、彼女はテヘラン平和博物館の母でもある。彼女が神の預言者一門とともにあることを願う次第である“

IRIB国際放送文化部 ザハラゴルバーン・アスギャリー

 

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