テヘラン平和博物館の紹介
(last modified Mon, 03 Oct 2016 06:52:47 GMT )
10月 03, 2016 15:52 Asia/Tokyo
  • テヘラン平和博物館の紹介

イラン北西部のサルダシュトの化学兵器による攻撃は、80年代に行われた、イランに対するイラクの化学兵器攻撃の中で、最大の悲劇を呼びました。サルダシュトは広島・長崎以来の、世界における化学兵器の犠牲となった町です。国際社会は、イラクの独裁者サッダーム・フセインをアメリカなどが支援していたことから、この犯罪に対して目立った行動をとりませんでした。 この犯罪の結果は、イランの聖なる防衛週間、テヘランの平和博物館で示されました。

毎年、世界平和の日の記念式典が、暴力や戦争のない世界を作り、各国のさまざまな人々の間に平和を広めるため、9月末に開催されます。テヘラン平和博物館でも、9月18日、この日を記念する式典が行われました。この式典では、イラン駐在のオランダ、ブルガリア大使やイラン文化遺産・伝統工芸・観光庁研究所のベヘシュティ所長、サルダシュト出身のヘズリー議員や一部のイラン・イラク戦争、あるいは化学兵器攻撃の被害者が参加しました。

テヘランの平和博物館での会合

平和の日の記念式典では、テヘラン平和博物館の運営担当をつとめ、自身も化学兵器の被害者であるサーレヒー氏が、次のように語りました。

「今年も、世界平和を記念しているが、イエメンやイラク、シリア、そのほかの多くの国や人々が平和や安全の恩恵を授かれず、大国の拡張主義的な人物や組織による悲痛な人道的悲劇によって、21世紀において最も抑圧された環境下に置かれている。イスラムでも、平和はコーランと預言者ムハンマドの慣習に関係があり、常に、戦争ではなく対話が、不和ではなく和解が、不寛容ではなく寛容が、報復ではなく許しが世界の人々と交わる言葉だった」

テヘラン駐在のオランダ大使は、この式典で演説しました。彼女は核問題における平和的な対立の解消は、外交形式での、対話による問題解決の成功例だったとして、次のように語りました。「このような形式は、最もよい結果を国や人々にもたらす。現在、世界では危険な衝突が見られるが、伝統的な対立の解消方法、つまり対話は、危機を排除するのを促進する」

テヘラン平和博物館でのオランダ大使

サルダシュトは、イラン・イラク戦争のとき、イラクによる化学兵器攻撃を受けました。この攻撃で、この町の住民110人が死亡し、またそのほか、8000人が毒ガスによる被害を受けました。ヘズリー議員は、世界平和の日に際し、この町の化学兵器の犠牲者・被害者を代表して、彼らのメッセージを伝えました。メッセージの一部には次のようにあります。

「今日の世界の状況により、イランにおける化学兵器攻撃の犠牲者は、世界の人々の意識の向上のため、大量破壊兵器を使用した結果と、その危険性を示す中で努力している。道徳的な美徳や正義に立ち返ることは、サルダシュトの平和的なメッセージを伝える人々が追求する唯一の道である。対話による恒久的な平和の確立のための努力、情報の発信や教育、市民活動、国際的なネットワークの創設、共通性の獲得は、人々の信条によるものだ」

テヘラン平和博物館でのヘズリー議員

テヘラン平和博物館は、テヘランの最も古い庭園である、シャフル公園にあります。この博物館の創設が考案されたのは、2005年、テヘランの化学兵器犠牲者支援協会と平和博物館ネットワーク調整担当者の会談においてでした。この年の広島の視察は、テヘランに平和博物館を建てようとする傾向を強めました。テヘラン平和博物館の創設者は、国際的な経験により、イラン・イラク戦争におけるイランの人々に対する化学兵器の悲惨さを伝えるために、この博物館を建てたのです。

テヘラン平和博物館

テヘラン平和博物館は、中東地域初の平和博物館として、2011年にテヘランで開館しました。これまでにイラン国内外の多くの見学者が訪れています。この博物館は、国際的な平和博物館ネットワークの一部で、その本部はオランダのハーグにあります。平和のメッセンジャーで、化学兵器攻撃の生き証人であるこの博物館の館員は、ほかの民間組織や世界中の平和博物館との関係を維持しています。この博物館と、その運営者は、平和の文化を、政治的ではなく、社会的、文化的な意味で広めようとしているのです。

今日、平和博物館は世界中に存在します。確かに、世界には今も戦争がありますが、平和博物館の拡大は、平和の推進のために行われている努力によるものです。世界の多くの平和博物館では、戦争の中で起こる悲劇が、最もよく注目されているものです。テヘランの平和博物館でも、イランに対する化学兵器攻撃による悲劇は、この博物館が伝える内容の中心的なテーマであり、戦争の暴力性と平和の重要性を示すものとして、注目を受けています。

テヘラン平和博物館は、ある意味で国連本部の建物に似ています。なぜなら、博物館の入り口と国連の建物の入り口には、ペルシャ語詩人サアディーの「人類は互いにみなその一部」という詩が刻まれているからです。違う点といえば、テヘランの平和博物館に入ると、ガスマスクと緑の服を着た戦士の人形が展示されており、これは大量破壊兵器による被害者の象徴です。一方で、国連にはこのようなシンボルは置いてありません。

また、テヘランの平和博物館の入り口には、建物の創立記念日が記されていません。それは、平和は人類の恒久的な努力によるものだからです。この博物館の建物は簡素で、中央のサロンは青いドーム型の屋根を持ち、そこが建物の中心部となっている構造です。

化学兵器の犠牲者は、戦争の粗暴な現実を確かな形で語る語り手や、平和の使者として最もふさわしい人物です。このため、ボランティアで「化学兵器被害者支援協会」で活動を行う、サッダームによる化学兵器攻撃の被害者が、この博物館でガイドとして活動しています。この被害者団体は、自身の経験を語ることを切望しており、自発的に自身の経験を語り、若い世代に伝えています。

テヘラン平和博物館の化学兵器の被害者モハンマド・ザングアーバーディー氏

化学兵器の被害者モハンマド・ザングアーバーディー氏は、週に1度、旅行者のために、テヘラン平和博物館に赴き、イラン・イラク戦争の被害者の一人として、来訪者に毒ガスの影響について教えています。この博物館の「戦争室」と呼ばれる場所には、さまざまな時代における世界の大きな争いを起こした4人を語っています。一人目は預言者アダムの息子で嫉妬から弟を殺害したアベル、2人目はイランの伝説上の虐殺者ザッハーク、そしてドイツのヒトラーと、イラクのサッダームフセインです。

また、この博物館のほかの場所でも、イラン人の国民性と宗教的文化における、平和と博愛主義を広める上での各個人の協力の方法が強調されています。この博物館では、訪問者が世界平和の運動、特に個人的なものや、平和に関する機関を知ってもらおうという努力が行われています。

この博物館の一部は、教育計画に割り当てられ、文化、平和、国際的、博愛主義的人権、をテーマにした会合や教育ワークショップが開催され、教育活動がおこなれています。これに加えて、この博物館には資料室があり、その中で戦争被害者の経験を歴史的な資料として記録しています。この博物館付属の図書館にも、国際法から平和確立、戦争被害者の口述による歴史などのさまざまな資料が収蔵されています。この博物館で開催される常設、あるいは特別展示会は、イラン国内外の芸術作品を展示しています。

テヘラン平和博物館付属の図書館

テヘラン平和博物館では、化学兵器に関する歴史についても触れられています。初めて毒ガスが使用されたのは第一次世界大戦期の1915年と1917年でした。化学兵器がもっとも頻繁に使用されたのはイラン・イラク戦争の中で、サッダームはイランに対して、1800トンのマスタードガスや、140トンの糜爛剤、60トンのサリンガスを使用しました。

イラン・イラク戦争は、第2次世界大戦以来、最大の化学兵器による犯罪が行われた戦争でした。その化学兵器により、被害者は慢性的な気管支炎、角膜炎などの後遺症を患っています。この行動を非難する上での国際機関の怠慢により、イラク軍はより大胆にこれらの毒ガスを使用し、終戦の年には、最も多くの化学兵器が使用されました。

サッダーム政権軍によるイランの人々への化学兵器を使用した攻撃の結果

テヘラン平和博物館のホールの奥には、イラン人の平和と友好のシンボルであり、人類初の人権文書であるアケメネス朝のキュロス大王の憲章が展示されています。全人類が平和と友好の中で生活できる日まで、常に平和と友好のメッセージを世界に伝える、と記されたポスターもあります。

テヘラン平和博物館は、イラン・イラク戦争時における化学兵器の危険な側面を紹介するために設立され、このため、この博物館の主要な部分は、化学兵器や大量破壊兵器のイランの人々に対する影響についての事柄に割り当てられています。

このホールを出ると、アメリカの日本に対する原爆投下に関するメモリアルオブジェが見えます。これは、被爆者と、戦後、平和博物館の建設と発展に役割を果たした日本に対する敬意を示しています。現在も、150の平和博物館が世界にありますが、そのうち50は日本に立てられました。

テヘラン平和博物館の来訪者の順路の最後には、美しい図書館があり、平和に関する研究にとってふさわしい文献が収められています。

 

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