イランの名声、世界的な栄誉(166)
(last modified Wed, 14 Feb 2018 09:11:04 GMT )
2月 14, 2018 18:11 Asia/Tokyo
  • キャマーロッディーン・ベフザード氏のブロンズ像
    キャマーロッディーン・ベフザード氏のブロンズ像

今回は前回の続きとして、イラン北東部ホラーサーン地方にスポットを当て、その中でも現在はアフガニスタン西部の町となっているヘラートに視点を移し、15世紀後半から16世紀前半のティムール朝時代にヘラートに生まれたイランの著名な画家で、イランの絵画における流派の1つ・ヘラート派の創始者であるキャマーロッディーン・ベフザードをご紹介することにいたしましょう。

キャマーロッディーン・ベフザードは、新しい絵画様式を生み出した画家として名声を博していました。彼の作風は、イランの絵画に新風を吹き込み、その作品は長い年月にわたって、イランやインド、トルコ、そして中央アジアの芸術家たちの模範となったのです。

ベフザードは、1450年から60年ごろ、当時はイランの町の1つで現在はアフガニスタン領となっているヘラートに生まれました。当時の歴史家の多くは、このイランの名高い画家が、ティムール朝の君主ホセイン・バイカラが所有する王室図書館館長を務め、ヘラートに出自を持つ宮廷画家ミーラク・ナッカーシュに養育されたと考えています。

細密画の権威の1人とも言われるベフザードは、幼少期に両親を失い、彼の親族の1人だったといわれるミーラク・ナッカーシュに養育されました。ミーラク・ナッカーシュは、画家であったともに書道家、金箔工芸家でもあり、ヘラートの町の建物にある碑文の多くは、ミーラク・ナッカーシュによる書体とされています。

ベフザードは、若年時代から画家として名声を博し、ヘラートを統治していたホサイン・バイカラや、芸術愛好家だった宰相アミール・アリーシールナヴァーイーに注目され、育ての親のミーラクの後継者として王室図書館館長、宮廷画家に選出されました。

サファヴィー朝の君主イスマーイール1世は、ヘラートの町を占領した後、巨匠ベフザートのほか、ヘラートの町の複数の芸術家たちを、イラン北西部の町でサファヴィー朝の最初の首都となったタブリーズに移し、王室図書館の運営管理をベフザードに委ねました。

ベフザードは、1530年代に逝去しました。彼の墓については、タブリーズだとする説もある一方で、一部の人々の間では彼の生まれ故郷のヘラートにあるとされています。

 

すでにお話したように、ベフザードはイランの絵画様式におけるヘラート派の創始者です。この流派に属する一連の画家は、2つの世代に分類されます。第1の世代は、ティムール朝の第3代君主シャー・ルフと同時代の画家たちであり、その中の代表作はシャー・ルフの息子バイソンゴリの注文により、イランの英雄叙事詩『王書』を細密画に描いた「バイソンゴリのシャーナーメ」です。また、第2の世代はベフザードを筆頭とする世代の画家たちで、彼らはティムール朝の君主ホセイン・バイカラの時代の人々に当たります。

 

キャマーロッディーン・ベフザード氏のブロンズ像

 

1447年にシャー・ルフが死去した後は、政治・経済的な安定が崩れ、ティムール朝の領土内では数多の騒乱が発生しました。こうした中、子供を持つ父親の多くが、自らの子供に殺害されるという事例が多発しました。

 

こうした出来事の中で、画家たちは大きな迫害を受け、王たちの所有物として権力者の間で交換されるという憂き目に遭遇しました。こうした騒乱や情勢不安により、イランの絵画や書物の装丁の発展にかげりが見え始めました。

ホセイン・バイカラが勝利を収め、12年にわたる内戦の後、1470年にヘラートを征服したことから、ティムール朝の領土は政治的な安定を見ました。ホセイン・バイカラは、学問を愛し芸術を奨励する王子たちを起用し、社会を大きく変革することに成功しました。この時代に学問や芸術を奨励した人々は、枚挙に暇がなく、その前の時代と比べてはるかに多かったと言えます。ホセイン・バイカラの治世には、文化面での大きな発展が見られ、歴史家たちによればこの時代の宮廷詩人の数は150人から200人と言われています。

 

ホセイン・バイカラは権力を駆使し、次々に建設的な措置を講じました。彼の治世には、農業の発展のほか、モンゴル時代に破壊されていたカナートの整備、文化的事業に従事する人々に対する免税措置などが実現しました。また、この時代には王室図書館も活動を続行しました。

ティムール朝の傑出した宮廷画家の1人ミーラクは、イランの絵画様式におけるヘラート派の形成に大きな役割を果たしました。彼は当初、書道やコーランの朗誦などにより日々を過ごしていましたが、父親の死後は、金箔工芸などの習得に転じ、このことから彼には絵画の取得への意欲が芽生えることになります。ミーラクの創作活動が非常に進んだことから、彼は王室図書館の館長に就任しました。

ミーラクはまた当時、それまでの既成概念を打ち破る芸術家としても知られています。彼は、ほかの芸術家とは異なり、それまでの伝統に従うことなく、旅先や屋外にて作品を生み出しているのです。ヘラート派の絵画でミーラクのものとされている作品には、「ホスローの肖像をシーリーンに提示」、そして「ファルハードとシーリーンの面会」などがあげられます。

 

画家ミーラクの二つの絵
老婆とスルターン・サンジャル(左側)    シーリーンとファルハードの出会い(右側)

 

 

細密画の権威ベフザードの両親が死去した後、ティムール朝の宮廷画家ミーラクは、ベフザードの育ての親となりました。ベフザードはミーラクに師事し、またミーラクによって当時の画家たちの活動の場へと足を踏み入れることとなったのです。

「ティムールの勝利の書」という書物の内容を描いた細密画集は、1460年代から70年代、すなわちベフザード自身が16歳から17歳ごろのものと考えられています。また、一部の研究者の間では、この作品はその巧みなデザインや色使いの点から、実際には師匠であるミーラクがデザインし、弟子のベフザードが絵筆をとったのではないか、という疑問が提示されています。

「ティムールの勝利の書」が、ティムール朝の君主ホセイン・バイカラの時代に有力者の1人の注文により編纂され、当時の王朝によるものではなく、公の側面を有していなかったことから、この書は宮廷画家のミーラクが弟子のベフザードの練習用に使用していた可能性があります。

為政者ホセイン・バイカラが死去したことで、再び内乱が勃発し、中央アジア北部に住むウズベク族の1人ムハンマド・シャイバーニー・ハーンがヘラートに勢力を伸ばしました。しかし、この出来事がイラン式の絵画の発展に影響を及ぼすことはありませんでした。それは、シェイバーニー・ハーンが絵画に関心を持っており、またベフザードがシェイバーニー・ハーンの肖像画を描いたからです。

ヘラートがサファヴィー朝の君主イスマーイールにより占領され、ベフザードのような優れた芸術家がヘラートからイラン北西部の町タブリーズへと移されたことは、ヘラート派の没落を早めることになりました。

ベフザードは、サファヴィー朝の優れた宮廷画家ソルターン・モハンマド・タブリーズィーとともに、タブリーズへと移され、サファヴィー朝の君主イスマーイールの息子タフマーセブの教育に当たりました。ベフザード、そしてソルターン・モハンマドという2人の絵画の巨匠は、タフマーセブに計り知れないほど大きな影響を与えました。このため、後になってタフマーセブは歴史に残る作品を残したのみならず、1520年に自ら細密画集「タフマーセブ王の王書」の制作に着手しています。この作品は現在、ヘラート派の最も有名な細密画入りの写本とされています。

サファヴィー朝の王タフマーセブの時代に、タブリーズ派、そしてヘラート派の2つの流派が同時に存在していたことは、ヘラート派の衰退の引き金となり、もう1つの流派で、レザー・アッバースィーの作品に見られるイスファハーン派の出現につながったのです。

次回もどうぞ、お楽しみに。