ノウルーズ便り
ノウルーズ、文化的な結びつきの秘密(1)
今回は、ノウルーズの慣習がイラン人の文化的な結びつきに果たしてきた役割についてお話することにいたしましょう。
イランは現在、春の新年ノウルーズを迎え、全国で祝賀の儀式が行われています。ノウルーズは、イラン文化圏において多大な機能を果たしてきた古式ゆかしい儀式であり、それは現在も変わりません。
2009年9月30日、イランを初めとする7カ国により、ノウルーズが初めてユネスコ無形文化遺産に登録されました。そして、2010年3月には、テヘランにあるサアダーバード宮殿において、ノウルーズを祝う初の国際的な祝祭が開催されています。
この盛大な式典には、イラン、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタン、イラクの各大統領のほか、トルコの副首相、アゼルバイジャン共和国の外務大臣が参列しました。この式典はまた、人類の無形遺産として3000年の歴史を持つノウルーズが世界的に登録されたこと、そして国連総会により3月21日が国際ノウルーズ・デーに制定されたことを記念するものとなりました。
2015年3月2日から7日にかけて、イランは先に挙げた6カ国のほか、新たに5カ国を加えた11カ国とともに、ノウルーズのユネスコ登録の追加申請を行いました。その結果、2016年末には、イランを含めた12カ国(キルギス、イラク、アゼルバイジャン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、ジョージア、インド、カザフスタン、ウズベキスタン、トルコ)の要請により、友好と中庸、希望のメッセージをもたらす慣習としてのノウルーズが再登録されました。
ノウルーズの祝祭は、国内、そして世界規模という2つの視点から考察することができます。また、イランはその文化により認知されています。イランの文化は、イランに属する人々の行動や精神、思考、経験の集合体に他なりません。イランに生まれ生活し、活動してきた人々は、例え他の土地に渡っても、イランの一部をも共に運んでいったといえます。
イランの文化は、その悠久の歴史に端を発し、過去から様々な経緯を経て現在まで伝えられています。イランの文化は、世界で最もダイナミックで、後世にまで語り継がれている文化の1つです。中でもノウルーズの祝祭は、イランの文化全体のシンボルであるとともに、ノウルーズのあらゆる側面は壮大なイラン文化の一部を形成しています。
国民的な祝祭や慣習は、人々を文化的に結びつける重要な要素となります。中でも、イランにおけるノウルーズの祝祭は、最も大きく古い国民的な祝祭とされています。このため、ノウルーズは数千年にわたりイラン高原に共存してきたイランの諸民族を、文化的に結びつける最も重要な要素なのです。ノウルーズは、イランの人々の記憶における歴史的な価値観を維持する上で、集団的、文化的で最も影響力のある慣行なのです。
イランは、多文化国家であり、200以上の民族や部族が共存しています。これらの民族は、数千年前から共存し、子孫を残し、友情を育み、そして世界の誰よりもイランを守り続けてきた人々です。イランに暮らす民族は、それぞれ独自の気質、古来の伝統を持ちながらも、ノウルーズという共通の祝祭を催します。
ノウルーズの祝祭は、イランの諸民族を互いに結びつける最も重要な要素であり、彼らはイランのいずれの地域においても、宗教や生活環境、地理的、気候上の条件、言語の違いこそあれど、この祝祭を執り行います。
ノウルーズという偉大な慣習は、3000年もの紆余曲折を経て現在に至っています。この祝祭は、世界で最も古い国民的な習慣であり、特定の思想や集団に属するものではなく、イラン人の文化を存続する要素の1つとなっています。
現代におけるノウルーズのあり方は、3000年前とそれほど違いはありません。このため、ノウルーズはイランに住む人々を文化的にまとめる要素の1つとされ、世界各地でほぼ一様に、そして盛大に開催されています。このことから、思想家はノウルーズがイラン人の民族主義やアイデンティティを存続させると考えています。
ノウルーズは、全てのイラン人が祝う祝祭であり、イラン文化の最高の、そして最も歴史のあるシンボルであり、さらに全てのイラン民族に受け入れられている伝統です。このため、社会的な協調を促し、団結を強化、維持するとともに、イランにおける諸民族が互いに近しくなる上で、有益な役割を果たしているといえます。
ノウルーズやその前後に見られる慣習、イラン人の間でのノウルーズの変遷の歴史については、数多くの記録や著作が残されています。その1つとして、現在のウズベキスタンにある町・ブハラに関する、ペルシャ語による古い書物『ブハラの歴史』があります。この書物においては、ノウルーズのほか、イラン暦の年内の最終火曜日の夜に行われる、焚き火の上を飛び越える儀式・チャハールシャンベスーリーといった、ノウルーズの前祝についても述べられ、その実施方法や歴史、哲学にも言及しています。
ノウルーズのそのほかの慣習については、10世紀から11世紀にかけてのイランの天文学者アブーレイハーン・ビールーニーの著作においても、詳細に説明されています。また、11世紀にイラン北東部で生まれたイランの詩人オマル・ハイヤームの著作においても、ノウルーズに関して述べられています。そのほかにも、ノウルーズに関する書物は数多く存在しており、それらのいずれも、この祝祭がイラン文化圏で生まれたことを物語っています。イランはかつて、およそ1000万平方キロメートルもの広大な領土を誇り、この領内に住んでいた全ての人々が最高の形でノウルーズを祝っていたのです。
イランのノウルーズの祝祭は、イランの古い伝説にルーツを持っており、これはイラン文化圏の全ての諸民族が共有する遺産と言えます。イランの大詩人フェルドウスィーの英雄叙事詩『王書』、ノウルーズに関する書物、イランの歴史家マスウーディーやタバリーの歴史書などにおいても、ノウルーズの祝祭は伝説上の王朝であるピーシュダーディー朝や、ジャムシード王の時代のものと考えられています。
伝説上のジャムシード王はある日、玉座に座り、そこに太陽の光がさして、世界が光り輝き、新しい日がめぐってきた事から、この日をペルシャ語で新たなる日を意味するノウルーズ名づけたと伝えられています。また、フェルドウスィーも、『王書』の中で、この神話に触れ、全く同様のいきさつを提起しています。
この物語は伝説、実際には全ての諸国民の理想であり、よりよい生活や求められている思想への到達のために、常にそれらは伝説の中で語り継がれています。伝説が目指すものは、人類を理想的な段階へと促すことです。ノウルーズやその慣習は、全てのイラン人に共通する伝説であることから、この祝祭の基本的な慣習や儀式は、全てのイラン人の間でほぼ一様のものとなっています。
イランの人々は、ノウルーズが生まれた当初から、常に自らや同胞、そしてこの祝祭を行う全ての人々の、さらなる幸福を願ってきました。そして、このことはノウルーズ文化圏に存在する全ての民族や文化の間で、親近感を強めることになったのです。このため、ノウルーズはイランの各民族やさまざまな文化を互いに結びつける重要な原動力として、現在までその力を維持してきました。
ノウルーズとこれに関する慣習は、イラン人同士を文化的に結びつけている最も重要な要因であり、イラン国民のアイデンティティを形成する要素の多くを含んでいます。イラン人はいずれの民族や部族であれ、またいかなる言語や思想傾向を持っていても、このノウルーズを祝い、ノウルーズのもとに、歴史における自らの永続性を増してきたのです。
このような特徴により、イランにおけるこの歴史ある国民的な行事は、初めてイランの領土を保全する理由を生み出すことになりました。まさに、これが理由で、ノウルーズの前祝いや後祝いの慣習は、イランの各民族により実施されます。そして、このことは彼ら同士の心の結びつきと団結を物語っています。
ノウルーズの慣習は、特定の宗教や宗派には関係なく、また特定の思想に関連付けることはできません。この祝祭は、完全にイランの歴史から生まれたもので、イラン国民の連帯や団結を促し、彼らを文化的に結びつける重要な要素の1つなのです。
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