ラマザーンへのいざない(5)祈祷
(last modified Tue, 21 May 2019 15:30:00 GMT )
May 22, 2019 00:30 Asia/Tokyo
  • 祈祷すること
    祈祷すること

今回は、祈祷についてお話することにいたしましょう。

ある日のこと、ある男がイスラムの預言者ムハンマドのところにやってきて、次のように尋ねました。「預言者よ、神は私たちの近くにおり、私は静かに神に祈りをささげることができるのでしょうか。それとも、神は私たちから遠く離れていて、大声で神に呼びかけるしかないのでしょうか?」すると、預言者がまだ口を開かないうちに、コーラン第2章、アル・バガラ章、「雌牛」第186節が預言者に下され、この男の問いに対する答えが、すべての時代の神を信じるものに対して、次のように示されました。

“そして、僕たちが我についてあなたに尋ねるとき、次のように告げるがよい。『誠に、我は僕たちの近くにいる。我に祈る時は、その祈りに答える。それで我の呼びかけに答えさせ、我を信仰せしめよ。恐らくかれらは正しく導かれるであろう』と”

 

 

 

祈祷は、神に服従する心の現われであり、神に対する人間の崇拝の精神を高めるためのものです。神へのこうした崇拝や服従の精神こそはまさに、すべての預言者たちによる宗教の教えの礎となっています。

一部の人々は、宗教の先人たちだけが祈祷の重要性について語り、信者たちに対しこれに従うよう呼びかけていたと考えています。しかし、このような考え方は真実とは大きくかけ離れています。

 

祈祷は、人間の本能的な欲求の1つです。このため、人間が地上の世界に疲れ果て、天国への道を求めるとき、神に祈祷し、そして神に服従し、神との関係を築くことにより、心と体を清めるのです。

祈祷をささげ、崇高なる神に助けを求める事の重要性や価値については、コーラン第25章、アル・フォルガーン章、「識別」第77節において次のように述べられています。

”言うがよい。『もしあなた方の祈りがなかったら、私の主は、あなた方に価値を見出さないであろう』”

 このため、私たちはこうした行動を、よりよい充実した生活の実現のために活用できるのです。今日、思考する目覚めた人々は、誰もがこの有効な手段を活用し、喜びや安らぎ、あふれ出るエネルギーを獲得しています。アメリカの作家ウエイン・ダイアーは、これについて次のように述べています。

「私は神に礼拝をささげるとき、信じられないような方法で神のみ光を浴び、また自分の存在すべてが霊魂である事を感じる。自分の体があることは感じるが、この精神性あふれる感覚や魂の世界をめぐる旅から、自分の肉体に帰るとき、力を感じ、体から大量のエネルギーがあふれ出ているように感じる」

アメリカの作家デール・カーネギーは、次のように述べています。

「私は、自分が非常に動揺していると感じるとき、教会に行く。そして目を閉じ、祈祷をささげる。すると、自分の体や神経が落ち着いていることに気づく」

 

 

祈祷は、心と体に大きな効果をもたらします。祈祷による最も重要な効果は、心に希望が生まれる事です。希望を失った人間は、いわば生命のない存在物のようなものです。病気にかかっている人は、健康を取り戻す事に希望を抱いたときに回復し、失望してしまうと、もはや回復は望めません。戦争で戦う兵士たちが勝利を収める基本的な原動力が、希望と士気であることから、希望を失った兵士たちは、どのような最新鋭の兵器で武装していても、戦場で敗北することになります。

祈祷をささげ神に頼る人は、神の方を向き、望みを託し、語らうなら、数多くの困難にもかかわらず、その心に希望が生まれ、生きる方を選びます。それはあたかも、新しい生命を得たようなものです。こうした人々が、最も困難な事柄ですら最もたやすいものになる神に、救いを求めたならばなおさらのことです。

人は、このような神との関係ができたときには、神に目をむけ、神に悩みを打ち明けます。言うまでもなく、神はその人の心に希望の光を与えてくれるのです。

 

祈祷がもたらす効果の1つは、その人に敬虔さが生まれることです。敬虔さにより人は神に近づく事になり、来世でも救われることになります。祈祷は、人の心にこのような価値ある宝物をもたらしてくれるのです。

祈祷をささげ、神を頼り、神を求めるようになると、その人の存在には神の持つ美しい属性が宿り、その結果、自然にその人は神に向かいます。そして、祈祷が受け入れられることを望むのであれば、悔悟をすべきでしょう。

祈祷をささげることは、悔悟をうながすることになり、生き方を見直すとともに、この行動により、敬虔さがよみがえります。いくつかの伝承には、次のように述べられています。あるとき、神が預言者イーサーに対し、次のように告げました。

“イーサーよ、我を求めるときには、水の中で溺れて助けを求めて叫ぶ人のように祈祷をささげ、わが方を向くがよい。私の前にあっては謙虚になり、誰もいない場所では、我のことを大いに思い起こすがよい。”

 

シーア派初代イマーム・アリーは、息子で2代目イマームとなるイマーム・ハサンへの遺言書において、次のように述べています。

“神の慈しみあふれる宝の中から、神しか与えることのできないものを求めるがよい。それはより長い命、健康、日々の開運などである。祈祷がかなうのが遅れても、決して失望してはならない。それは、神の慈しみはその人の意思表示の大きさに相当するからである。時には、願いがかなうのが遅れることがあるが、その場合にはより大きな褒賞が与えられる。また、ある時には、求めても答えが得られないことがある。それは、近いうちに、あるいはある決まった折に、あなたの求めたものよりも、さらに素晴らしいものが与えられることを意味している。だから、あなたの祈祷は、あなたに美しさを与え、困難や苦しみを遠ざけるものでなければならない。それは、現世での富があなたにとって永久的なものではなく、あなた自身も永久には存在しないからである”

 

 ここで、次の点に注目する必要があります。それは、崇高なる神に対する願望が、その人を美しく輝かせ、その人の清らかな心から湧き出たものでなければならないという点です。その理由は、穢れた心が美徳を理解したり、祈祷がかなえられるのに相応しくないことにあります。

 

ここで、次のような伝承をご紹介しましょう。

イスラエルの民が7年間にわたり、前代未聞の旱魃に見舞われ、遂には生きるために死肉やごみまでをも食するという事態が発生しました。彼らが山や砂漠に出かけても、また雨乞いの祈りをささげても、全く効果はありませんでした。そこで、ついに神が預言者に次のような啓示を下しました。

“預言者よ、人々に対し、神に向かって手を差し上げ、祈祷をささげるよう命じるがよい。だが、人々から不当に剥奪された権利が、その持ち主に返されなければ、あなた方の願いは聞き届けられない、と伝えよ” 

人々が言われたとおりの事を実行したとき、恵みの前が降り注がれました。

 

 

ラマザーン月は、神の慈しみの扉が開かれる月であり、この月には祈祷や願い事がかなえられます。また、この聖なる月は神への服従について語る月でもあり、祈祷しそれがかなえられる月でもあります。これについて、イスラムの預言者ムハンマドは次のように述べています。

“天国の扉は、ラマザーン月の初日の前夜に開かれ、この月の最後の日の夜に閉じられる。この貴重な機会を活用する人々は、なんと素晴らしいものか。日没時の光り輝く瞬間、そして神の僕たちに天国の扉が開かれる断食終了の瞬間に、自分や他人の幸せのために祈祷することは、なんと美しいものか”

 

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