精神性への扉(4)【音声】 
(last modified Mon, 03 Apr 2023 07:19:00 GMT )
4月 03, 2023 16:19 Asia/Tokyo

創造主である全知全能の唯一の神をよりどころとすることで、人間は人生の紆余曲折に耐える力を養い、賢明さを保ちます。

しかし、一部の人はなぜ唯一神と関係を築くべきか、彼を崇拝すべきかについて知らないのです。ある集団は、人間は完全な存在として、自分の行うべきことや思想に基づき、問題を克服することができると考えています。これらの人々の考えによれば、人間の幸福には技術的な進歩だけで十分だということになります。しかし、実際には、人間が世界で自身を能力ある存在だと認識したとき、迷いや神に対する反逆に陥り、これによって転落することになるでしょう。コーラン第96章、アルアラク章、凝血、第6節は次のように語っています。「まさに人間とは神に対して反逆的な存在で、自身は欠けているものがないと見ている」しかし、もし人間が自身を不滅の神の力に頼っていると認識すれば、神に対して謙虚に向き合い、勝手さや反抗を慎むようになります。

一方で、知識や技術は人間がより能力ある存在になるためのものだということは疑いようのない事実です。しかし、神と関係を築かず、宗教や道徳的な原則を守らない人物は、技術を獲得しても、問題を解決できないばかりでなく、しばしばその人物はこれによって問題を抱えることになります。今日見られるように、力や富のあるものは新たな技術の獲得を自分の欲望や他人に対する支配のためtに利用しています。

神との関係や、神に対する祈祷は、人間が成長する下地を整えます。神への祈祷は人間の神を必要とする精神から起こるものです。神を崇拝するものは、生活の中でその影響を受け、利益を得ます。フランスの医学者アレクシス・カレルは、次のように記しています。「つらい経験の中で学んだのは、ある国民の大多数の道徳的、精神的感覚の欠如はその国民の衰退につながるということだ。祈祷の必要性が失われた社会は、腐敗行為を免れない。人間の幸福は、その思想と心がともに養われるときに満たされる。ヨーロッパの文明は、脳のみを必要以上に育て、心を棄ててしまったという問題がある。そのため、道徳に対する信仰と愛は、薄れているか、なくなってしまっている」

イスラムの一部の宗教行為は、集団礼拝や金曜礼拝など、共同で行われます。加えて、イスラムでは個人的な宗教行為も、生活における義務や責任の一部として行うことが調整されています。たとえば、礼拝は創造主である神の崇拝を表明する行動であり、特定の慣習や指示が存在します。一人で礼拝を行うときにも、時間を確認し、他人の権利を尊重するなどといった一部の道徳的、社会的な慣習を守っています。

宗教的行為は、崇拝する感性を育てるとともに、人間が精神的バランスを保つ上で、よい影響があります。礼拝もまた、建設的な宗教的行為として、精神の健康の為の手段となり、心に喜びをもたらす要素となります。正しい、実践的な礼拝により、人間の中の精神的な害となるものや不浄なものが遠ざかります。

たしかに、各種の宗教における崇拝行為は、さまざまな形を持っています。一部の例では神に対する賞賛や感謝を言葉上で表し、一部の例では断食、跪拝といった実践的な行為が行われます。一部は思考や熟慮による意識的なものです。よく考えることは、知識や認識の根源であり、人間に変化を生じさせることから、最も優れた宗教的行為とみなされます。イスラムの預言者ムハンマドは、このように語っています。「一時間熟慮することは70年の宗教的行為に勝る」害して、イスラムにおける宗教的行為とは、宗教的な動機と一体のすべてのよい行いを指します。これにより、勉強や仕事、社会的活動や家事も、すべて宗教的行為だとみなされます。

宗教的な行為における重要な点とは、意識と洞察力です。もし宗教的行為が意識的に行われなければ、人間の思想はこり固まってしまいます。シーア派初代イマーム・アリーの時代、無知により、イスラムを偏った形で解釈する集団が存在していました。彼らは世界とその美しさにまったく関心を抱かず、毎晩、宗教的行為を行っていましたが、イスラムの教えの全体と深さを理解していませんでした。このため、イスラム共同体に間違った思想や多くの害をもたらしたのです。

イブン・ムルジャムという人物は、そうした盲目的な心を持つ人物で、この人物がイマーム・アリーを襲ったことで、イマーム・アリーは殉教しました。イマーム・アリーはこのような人物の集団を粗野で崇高な思想や、慈しみの心にかけており、ならず者の集団としており、まずはじめに教育を受け、イスラム的慣習を教え、イスラム文化に親しませるべきだと考えていたのです。

イスラムの偉人たちは常に、宗教的行為やそのほかの生活において、常に願望と喜びの精神を持つために、宗教的行為において極端に陥ることは避けるように勧告していました。ある日、預言者ムハンマドに、教友たちの一部がすべてを放棄し、宗教的行為に没頭するようになったという知らせが届きました。預言者ムハンマドは、モスクに行き、次のように語りました。「あなた方はどうしてしまったのだ、私の共同体の中で、そのような人々が現れるとは。私は神の預言者だが、そのような行いはしない。毎晩、朝まで夜通し宗教的行為をすることはない。夜のひと時は休んでいる。毎日断食もしないし、家族にも接している。宗教行為だけを行動様式とする人物は、私の慣習からは外れている」

イスラムの観点では、宗教的行為とは、神に近づき、精神を完成させる行動であり、意識を覚醒し、方向付け、人間を迷いから解放します。崇拝行為により、人間は存在の真理を理解します。言い換えれば、意識的な宗教行為とは、人間を育て、道徳的な支えを得る行動です。礼拝などの宗教行為は、薬のように癒しを与えるものです。しかし、礼拝が効果を発揮するのは、人間が全知全能の神の前に立っているということを知り、その偉大さに注目して、精神を完成させようとすることを知るときです。このため、コーランの中では、礼拝は意識的に行われるものだとされており、コーラン第4章、アンニサーア章、婦人、第43節では次のように語られています。「敬虔な者たちよ、酔った状態にあるときは、何を言っているかが分かるようになるまで、礼拝に近づいてはならない。」

ある日預言者ムハンマドがモスクに入ったときのこと、何かを行っている2つの集団を見かけました。預言者はこの2つの集団を見て満足していました。一部は宗教的な行為を行い、一部は教育活動を行っていました。預言者ムハンマドは同行者のほうを向き、次のように語りました。「この2つの集団はどちらも善行をおこない、幸福の道に向かっている。しかし私は、人々に教えをもたらすために遣わされた」こうして、知識を求める人々の輪に加わりました。

愛と洞察力を持って礼拝する人は、そのすばらしさを感じ、神に対する服従の境地に至ります。この中で、願望を持ちながら神に従うのです。

 


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