May 18, 2022 17:01 Asia/Tokyo
  • ナスィーロルモルクのモスク
    ナスィーロルモルクのモスク

前回に引き続き、イラン南部・ファールス州の州都シーラーズを訪れ、この町の貴重な歴史遺産について詳しくご紹介してまいりましょう。

シーラーズとその近郊には、数多くの聖なる場所が存在し、中にはファールス州を、聖なる場所の土地と呼ぶ人もいます。多くの歴史家や宗教の専門家は、ファールス州、特にシーラーズを、宗教活動の歴史の点で、最初のシーア派教徒の居住区の一つであると考えています。シーラーズにある宗教施設や聖なる建造物のほとんどは、8世紀から9世紀のものとなっています。ここからは、これらの場所の一部についてお話していきましょう。

 

シャーチェラーグ

 

シャーチェラーグという名で知られる、アフマド・イブン・ムーサーの墓は、シーラーズを代表する最も大きな巡礼地です。アフマド・イブン・ムーサーはイスラムの預言者の子孫です。シャーチェラーグは、預言者一門を敬愛する人々の巡礼地であり、シーラーズの町の輝く宝石のような存在です。

 

シャーチェラーグ

 

アフマド・イブン・ムーサーは、8世紀、アッバース朝のマームーンの命により、多くの同胞や近親者たちと共に、マームーンの統治の拠点であったトゥースに向かう途中で殉教に追い込まれました。アフマド・イブン・ムーサーは、強制的にトゥースに連れて行かれた兄弟であるシーア派8代目イマーム、レザーに会いに行こうとしていました。アフマド・イブン・ムーサーの清らかな墓は、11世紀に発見され、そこに聖廟が建設されました。この建物は、1506年のイスマイール1世の時代に修復されました。それから90年後、地震によって建物の半分が破壊されましたが、それからしばらく後に再建されました。その後も、シャーチェラーグの墓は、様々な時代に修復が施されています。1956年、それまでのドームが取り外され、より耐久性のある現在のドームが建設されました。1979年のイランイスラム革命勝利後には、シャーチェラーグ聖廟の敷地の大規模な修復、拡張が行われています。

 

Image Captioシャーチェラーグn

 

現在のシャーチェラーグ聖廟には、エイヴァーンと呼ばれるテラスと柱のある廊下、数多くの部屋があり、それらは聖廟につながっています。この聖廟に見られる建築、鏡細工、碑文、しっくい細工、装飾、柱のある廊下の銀の扉、大部屋は、イスラム建築の貴重な例となっています。シャーチェラーグの兄弟であるセイエド・アミール・モハンマドの墓も、この墓から東に少し行ったところにあり、鏡細工が施された聖廟があります。この聖廟の柵は銀でできていて、イラン人の芸術家による美しい彫刻が施されています。アフマド・イブン・ムーサーとその兄弟であるセイエド・アミール・モハンマドの聖廟は、2つ合わせて、イスラムの預言者一門を愛する人々にとっての、壮麗で精神性に溢れた巡礼地となっており、世界各地から多くの人がこの場所を訪れています。

 

アティーグ・ジャーメモスク

 

アティーグ・ジャーメモスクも、シーラーズにある最古の宗教遺産の一つです。このモスクは、ジョムエモスクとも呼ばれ、シャーチェラーグ聖廟の東側にあります。アティーグ・ジャーメモスクは、894年、アムロレイス・サッファーリーの時代に建造されました。アティーグ・ジャーメモスクには6つの入り口があります。モスクの中庭には、石膏でできた立方体の建物があり、“家の神”と呼ばれています。この建物の碑文は、インジュー朝の王、アブーエスハーグの時代に、ソルス書体で記されました。ジャーメモスクの建物は、地震によって多くの損傷を受け、サファヴィー朝とガージャール朝時代に修復が施されました。

 

アティーグ・ジャーメモスク

 

ナスィーロルモルクのモスクも、シーラーズにある著名なモスクの一つで、この町の中心部に位置しています。このモスクを建造したのは、ガージャール朝時代のシーラーズの有力者、ミールザー・ホセインアリー・ハーン・ナスィーロルモルクです。モスクには大きな中庭、南側と北側の2つのテラス、東と西の2つの礼拝所、壮麗な扉の飾りと柱のある廊下があります。ナスィーロルモルクのモスクは、タイル細工やモザイクの点でイランでも最も美しいモスクの一つです。建物のほぼ全体が、植物をデザインした7色のタイルで装飾されています。タイルには、多彩な色使いで、動物や自然、花や植物が描かれており、ガージャール朝時代のタイル芸術の素晴らしさを示しています。

 

ナスィーロルモルクのモスク

 

ナスィーロルモルクのモスク

 

この他、モシーロルモルクのモスクも、ガージャール朝時代の遺産であり、シーラーズの旧市街に位置しています。このモスクの建設は、ファールス州の為政者であった、ハージ・ミールザー・アボルハサン・ハーン・モシーロルモルクの指示によって始められ、1858年に完成しました。モシーロルモルクのモスクは、耐久性と建築の点で、シーラーズのヴァキールモスクに匹敵するものです。モスクのメフラーブ・聖壇の非常に美しいタイル細工により、このモスクは、シーラーズにあるガージャール朝時代の美しいモスクの一つとなっています。

 

ナスィーロルモルクのモスク

 

 

ナスィーロルモルクのモスク

 

コーランの門も、シーラーズの貴重な歴史遺産の一つです。この門は、シーラーズの町の北東に位置しています。この門の名前の由来は、背の高いアーチの上にコーランが存在することにあります。このアーチは、ファールス州をデイラム朝のアザドッドウレが統治していた時代に建てられ、ファールス州を訪れる人が、このコーランの下を通るように、アーチの上にコーランが置かれました。その後、このアーチは破壊されてしまいましたが、ザンド朝時代、この王朝の創始者であるキャリームハーンが、アーチを再建しました。1937年、シーラーズの町の北の道路が拡張されたとき、アーチは再び破壊されましたが、その数年後に再建されました。そして1948年には、シーラーズの商人の一人が、個人の資金で、現在のアーチを建てています。このアーチにはソルスやナスフといった書体で、コーランの数多くの節がタイルの上に記されています。

 

モシーロルモルクのモスク

 

モシーロルモルクのモスク

 

こうした歴史遺産は、先人たちの記憶や文化、芸術に溢れたものですが、この他にも、古い神学校、図書館、博物館、詩人や学者、哲学者の墓といった文化遺産が、シーラーズをはじめ、ファールス州の各地にたくさん存在します。これらの場所には、毎日、数多くの人々が訪れ、散策を楽しむとともに、心をリラックスさせ、この土地の過去の文化人たちに敬意を表しています。こうした文化遺産には、ハーフェズ、サアディ、ハージューイ・ケルマーニーといった神秘主義詩人たちの墓があります。ここからは、ハーフェズの墓についてお話してまいりましょう。

 

コーランの門

 

コーランの門

 

シーラーズの名は、イランの偉大な詩人、ハーフェズの名と結びついています。「神秘の舌」と呼ばれた偉大な抒情詩人、ハージェ・シャムセッディーン・モハンマド・シーラーズィーは、1326年にシーラーズに生まれ、およそ65歳のときに、この町で亡くなりました。彼は若い頃、コーラン、アラビア文学、人文科学を学び、コーラン解釈、神学、哲学、文学に秀でた人物でした。ハーフェズは、頌詩(しょうし)、押韻詩マスナヴィー、断片詩、四行詩に優れていましたが、彼の名声はその抒情詩にあり、それは、ペルシャ語の抒情詩の魂であると言われています。ハーフェズの抒情詩は、人間の心に強く訴えかけるものであり、流れるような美しい表現と言葉により、独特で永遠の魅力を持っています。ハーフェズの名声は国境を越え、その抒情詩は、様々な言語に翻訳されており、世界の偉大な文学者が彼を称えています。

 

ハーフェズの墓

 

ハーフェズの墓

 

ハーフェズの墓は、シーラーズの町のハーフェズィーエという地区にあります。現在、この場所は、重要な観光地の一つになっており、世界各地から、ハーフェズの詩や思想を愛する多くの人々がこの墓を訪れています。ハーフェズが亡くなってから64年後の1452年、彼の墓の上にドームが建てられ、その前に大きな池が置かれました。1775年、ザンド朝のキャリームハーンが、ハーフェズの墓のそばに美しい建物を建てました。そこには、一枚岩でできた4本の背の高い柱がある広間があり、その前には大きな庭園が広がっていました。ハーフェズの墓の上には、大理石が置かれ、それは今も残っています。キャリームハーンの後、160年もの間、ハーフェズの墓は、人々によって幾度も修復や再建が行なわれました。こうして1936年、アリーアスガル・ヘクマトの尽力により、キャリームハーンザンドの時代の建築を用い、ハーフェズィーエの記念碑として、フランス人建築家、アンドレゴダールがデザインした現在の建物が建設されました。

 

ハーフェズの墓

 

ハーフェズの墓

 

新たな墓の天井は8本の石の柱で支えられ、その内部はきれいな色のタイルで覆われています。天井の外側には無数の模様があり、修行者の帽子を思わせるものです。表面の銅製の覆いは、時の経過と共に酸化して美しい色をかもし出しています。ここは昔から、愛する者たちが目指す場所であり、周辺には、ペルシャ詩人や神秘主義者たちが眠っています。

 


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