コーラン第19章マルヤム章マリア(2)
今回も、コーラン第19章マルヤム章マリアを見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
前回の番組でお話したように、コーラン第19章マルヤム章マリアは、メッカで下されました。
この章の節は、教訓に溢れた影響力のある美しい物語になっています。マルヤム章は、世界の創造主は清らかで唯一の存在であることを強調しています。
マルヤムとイーサーの物語を述べた後、この章の第41節から先は、唯一神信仰の象徴であるイブラヒームの人生を明らかにし、この偉大な預言者の導きは、全ての預言者と同じように、唯一の神を信仰し、神を知ることから始まったと強調しています。これについては、イブラヒームの父との論争が述べられていますが、コーラン解釈者の間には、唯一神信仰についてイブラヒームと見解を対立させていたのは、彼の義理の父である、という意見と、おじであるという意見があります。
預言者イブラヒームは当初、自分に最も近い人たちから導きを始めます。それは、大抵、身近な人の方が影響を受けやすいからです。そのため父親に唯一神の信仰を勧め、このように言いました。「私には、あなたに与えられなかった知識が与えられました。だから私に従い、私の言葉を聞いてください。そうすれば私があなたを正しい道に導き、あなたは救われるでしょう。父よ、悪魔を崇拝してはなりません。悪魔は常に、慈悲深い神に反抗しています」
預言者イブラヒームは、父親と全ての人間に、人生において明確な目標を持つべきだと説いています。人間は正しい道を知り、それに向かってまっすぐに進まなければなりません。さもなければ、悪魔の罠にはまって迷いに陥るでしょう。人間は、盲目的に何かに従ったり、頑なに何かを信じたりするのではなく、自分にとって何がよいのかを見極めなければなりません。そのため、イブラヒームは再び父に向かって、多神教信仰や偶像崇拝の悪しき結果を述べ、このように語っています。「父よ、あなたが多神教信仰や偶像崇拝に陥ったために、慈悲深い神からあなたに責め苦が下されるのを恐れます。あなたは悪魔の支持者です」
イブラヒームが、常に独特の愛情と優しさによって論理的に語りかけたにも拘わらず、その言葉は父親の心に響かず、彼は導きの道を選ぶことはありませんでした。それどころか、父親はイブラヒームの言葉を聞いて言いました。「あなたは私の神々に背を向けるのか? もしそのような行いをやめなければ、あなたを石打ちの刑にする。しばらくの間、私から離れなさい」 イブラヒームは、他の預言者たちと同じように、このような頑なな拒絶を前にしてもなお、敬意をこめて言いました。マルヤム章の第47節には次のようにあります。
「あなたに平安あれ。まもなくあなたのために、私の主からの赦しを願うだろう。なぜなら神はいつも、私に寛容であるからだ」
とうとう預言者イブラヒームは、多神教徒たちが真理を受け入れようとしなかったため、その社会を離れました。彼は常に、唯一神信仰を唱え、当時の堕落した社会全体が彼に敵対し、たった一人になっても、耐え忍びました。神は慈悲によって、息子のイスハークと、孫のヤアクーブを彼に授け、彼らはそれぞれが偉大な預言者となりました。彼らがその使命を献身的に果たしたため、神は彼らに栄誉を与え、神への知識、清らかさ、敬虔さ、神の道における戦いの模範としたのです。
マルヤム章は続けて、ムーサーが預言者に選ばれたこと、彼の清らかさ、純粋さについて述べています。預言者ムーサーは実際、イブラヒームなどの預言者の道を継承し、完成させました。マルヤム章の第54節と55節は、イブラヒームの息子、イスマイールにこのように語りかけています。
「またこの書物の中にあるイスマイールの運命を想い起こすがよい。彼は約束に誠実で、神の使徒であり、預言者であった」
この2つの節では、全ての人の模範となりえる、イスマイールの優れた特徴を挙げています。彼は約束に忠実で、高い地位にある預言者でした。彼は常に、自分の家族に礼拝と喜捨を命じ、神の満足を得ていました。続く第56節と57節は、イドリースについて語っています。
「またこの書物の中で、イドリースのことを想い起こすがよい。彼は正直な預言者であった。我々は彼に高い地位を与えた」
次の節は、偉大な預言者の性質について語った前の節を要約し、次のように語っています。「彼らは、神から恩恵を授けられた預言者たちであった」 この節は最後に、我々が導き、選んだ人々は、いつでも慈悲深い神の節が読まれるたびに、ひれ伏し、涙を流す人々であった」としています。
マルヤム章は続けて、神の預言者たちの気高い思想から距離をとった人々について触れています。「彼らの後、ふさわしくない後継者たちがやって来た。彼らは神のことを忘れ、礼拝を怠り、欲望に従っていた。そのため彼らは、その迷いに相応しい報いを受けるだろう。ただし、罪を悔い改め、信仰を寄せ、正しい行いをする者は別である。そのような人は天国に入り、わずかな圧制も受けることはないだろう」
イスラムの預言者ムハンマドの時代、多神教徒の一人がくさった骨を手に握り、それを自分の手で粉々にして風の中に放ちました。その粉は散り散りになりました。彼は嘲笑してこう言っていました。「ムハンマドを見るが良い。彼は私たちが死んで骨が腐った後、神が再び私たちをよみがえらせると考えている。だがそのようなことは不可能だ」 そのとき、コーランの節が下され、人間が再び蘇らされる日への人々の注目を促しました。マルヤム章の第66節にはこのようにあります。
「人間は言う。『死んだら再び生き返って[墓から]出るのか?』と」
次の節はそれに答えて、「人間は、我々が以前に彼を無から創造したことを想い起こさないのか」と述べています。つまり、人間を初めて創造した神は、その死後にも、再びそれを蘇らせることができるのです。
人間は、能力と知性を備えているため、このような質問に対して無関心であってはなりません。人間は自分が初めて創造されたときのことについて深く考えることで、その答えを見つけなければなりません。さもなければ、自分が創造された目的を突き止めていないことになります。今みた節は、復活に関する多くの節と同じように、肉体的な復活を重視していますが、魂だけが残り、復活の際に肉体が再び蘇ることがなかったら、このような質問や答えを交わす必要はなかったでしょう。
マルヤム章の終盤の節は、再び、唯一神信仰に戻っています。この章では、多神教信仰や、彼らの結末について述べているため、その終わりでは、多神教信仰の一つである、“神に子がある”、という考え方に触れています。多神教徒たちは、天使を神の娘と見なしていました。ユダヤ教徒は、オザイルを神の子と見なし、キリスト教徒はイーサーを神の子と考えていました。このような誤った考え方は、唯一神信仰の原則に反するものです。神は同等のものを持たず、子を必要ともしていません。
通常、人間が子供を必要とする気持ちには、様々な要素が関与しています。人間は、いつの日か死が訪れるために、自分の種を存続させるため、子孫を創造することを必要としています。人間の力は限られているため、助けを必要としています。また、人間は孤独を恐れます。そのため、自分の孤独を癒してくれる存在を求めるのです。しかし、これらの要素のいずれも、全知全能の神にはあてはまりません。神の力は無限であり、その生も永遠のものです。また、他を必要としたり、孤独を感じたりする弱さもありません。それ以外にも、子供を持つには、肉体や配偶者を持つことが必要ですが、これらは世界の創造主である神の清らかな本質からはかけ離れています。
創造の基盤は神の唯一性にあります。そのため、世界の全ての存在物は、神に子がいるという考え方を強く恐れます。コーランは、そのような言葉の醜さを最も強い言葉で表現しています。マルヤム章第88節から92節には次のようにあります。
「多神教徒たちは言った。『慈悲深い神は子を設けた』 本当に彼らは醜い言葉を発した。この[多神教徒の]誤った醜い言葉により、まもなく天は崩れ、大地が裂け、山々が崩れ落ちようとする。子を設けるなどとは、慈悲深い神にふさわしくないことである」
マルヤム章のメッセージは次のようなものです。神は無限の慈悲と恩恵を持っており、ザカリヤーのような、善良であっても無力で年老いた者の祈りをかなえ、絶望の末に、彼に相応しい子供を授けました。その一方で、神は罪や堕落に陥った人々を滅ぼします。なぜなら、神は慈悲深くあると同時に、厳しい存在でもあるからです。
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