神の公正さ(1)
今回も前回に続き、神の公正さについてお話することにいたしましょう。
前回の番組では、公正の定義について、公正とは言葉の上では、物事の中庸、穏健を意味するということをお話しました。神は、世界の創造においても、人間の法治体制に関しても公正という性質を有しています。一方で公正に関するものの一つに、最後の審判における神の公正な裁きがあり、これは「報いにおける公正」と呼ばれています。
生命システムにおける公正、あるいは創造の公正さについて、創造世界は公正に基づいて成立しており、神はあらゆる存在物にその相応しい程度に恩恵を与えていると言われています。創造の公正とは、創造世界は一つの大きな集合体として、バランスをとり、世界の成り立ちにおいて均衡を保ち、その場所であらゆるものが善いものとして創造されたということを意味しています・
生命のシステムを見てみると、全面的なバランスや計算されたシステムが世界を占めていることがわかります。例えば、生物体の各器官の正確な結びつきや原子内に存在するバランス、さらに天体間の距離はすべて、生命の世界が均衡を保っていることを示しています。
あらゆる存在物はその独自の道において、完成の道を歩み、生命システムやそれを占める関係からのあらゆる逸脱は混乱につながります。興味深いのは、自然におけるあらゆる無秩序や混乱の発生により、多くの現象は自ずと反応を示し、障害を取り除き、再度秩序を確立するということです。例えば、人間の体はウイルスやその他の病原菌の攻撃を受けれると自然の法則に基づいて白血球が体に害が及ばないように機能します。その傍らで、治療のために投入された薬が体を守る要素を助け、再度体を通常の状態に戻すのです。この過程は、生命のシステムがバランスを保つように創造されていることを示すものであり、あらゆる混乱に対して自ら反応を示し、すべてのものを最初の秩序に戻すのです。
創造のシステムにおいて、存在物は生命の原則を利用する能力の点で同じ条件を満たしておらず、あらゆる存在物は定められただけの能力を有しています。このため、恩恵の源である公正と英知の神は、存在物にそれぞれのレベルに応じた完成度を授けています。これに関して、コーラン第20章ター・ハー章、ター・ハー、第50節ではこのように述べられています。
「(ムーサーは)言った。我々の神はあらゆる創造物に(特徴を)授け、それから(それを)導かれたお方であると」
この節は預言者ムーサーが、神に関して質問した暴君フィルアウンに回答したものです。ムーサーは、「この世界を創造し、あらゆる存在物に完全な創造とそれに応じた特徴を授けたのは神であり、すべての存在物が神の導きを受けている」と言っています。つまり神は創造主であり、世界の導き手でもあり、生命の存続と完成の道を彼らに授けているのです。
ここで、人間の創造における相違はどのようにして神の公正や英知に合致しているのでしょうか?そしてなぜ英知の公正な神はすべての創造物を一様に創造しなかったのでしょうか?なぜ一方に知恵を授け、他方には知恵を授けないのか、一方を美しく創造し、他方を醜く創造するのか、また一方を貧困に、他方を富裕に創造するのでしょうか?
この問いを明らかにするためにはいくつかの点を指摘する必要があります。創造の英知においては様々な異なった存在物を創造する必要性があります。例えば、世界において指紋が一致する人間は二人といません。どの手指にも違いがあり、それぞれが特別な役割を担っています。もし人間がすべて男性だったり、あるいは女性だったりすれば、生殖のシステムはなくなり、人間は消滅してしまいます。さらにもしすべての動植物が同じ種類で同じ色をしていれば、世界にこのような無数の恩恵や驚くような美しさはもたらされません。
このため、形状における創造の違いはその創造の多様性や美しさの要因となり、それを不公正を意味するとみなすことはできないでしょう。また、存在物の集合体は互いに寄り添うことで、完全なシステムを形成しています。それはまるで多くの部品でできた自動車のようなものです。こうした部品の集合体の調和により、自動車が生まれ、動き出すのです。もし自動車のすべての部分がハンドルやギアであったなら、車は生まれません。社会においても同様です。社会のすべての人間があらゆる点で同じ種類になれば、社会的な統一は失われてしまうのです。
このため、こうした違いの存在は英知あるものであり、創造のシステムにおける相違は神の公正さに矛盾しません。創造物が異なっているからと言って、彼らの間に差別が存在するわけではありません。相違と差別は異なるものです。相違は様々な状況や能力に応じて認められる違いを意味しますが、差別は同じ状況や能力を持つ人間の間に違いを設けることです。一方に多くを与え、他方に少なく与える。差別は圧制的で、公正とは合致しません。例を挙げてみましょう。
二つの容器があります。どちらも10リットルの水が入ります。一方に10リットルの水を、他方には5リットルの水を注ぎます。ここで差別が生じます。なぜなら二つの容器は同じものだからです。しかしながらもし二つの容器を持っていて、一方は10リットル、もう一方は5リットルの容量があり、二つを海に沈めたとします。ここでも違いが生じます。しかしながら、違いの根源が異なっています。その二つの容器は海に沈められたのは同じですが、容量の点で違いがあります。
創造のシステムにおいてあらゆる存在物は状況によって独自の能力を有しています。そのため、創造物が一部の能力に至らないのは、本質的にこのような能力を得ることができないからです。別の言葉で言い換えると、神の恩恵は無限ですが、創造物がこうした恩恵を受ける能力には限りがあり、違いがあります。こうした制限もまた、世界の避けられない特徴の一つとみなされます。
このことから、存在物の違いは神の公正さとは相反しません。この違いは圧制や差別ではなく、公正さを示し、神を知ることのしるしの一つです。コーラン第30章ルーム章、ローマ、第22節には次のようにあります。
「彼のしるしの中には、天地の創造、あなた方の言葉や肌の色の違いがある」
もしすべての人間があらゆる点で同じで、同じ肌の色と形を持ち、声までもが完全に同じであれば、彼らを互いに見分けることも成長させることもできません。
相違は人類社会において非常に重要な役割を担っています。基本的に協力は、相違が生じたときに実現するものです。人間の知能における違いにより、ある分野では有能でも、別の分野では劣ることもあります。こうした能力の違いにより人間は互いを必要とするのです。その結果、社会の個人は補完的な役割を担い、互いを必要とします。こうした流れにより人間や社会の成長が促されるのです。
創造における構成はあらゆる存在物に教養を授けていることを意味しており、存在物はそれを受ける能力を有し、それぞれが特別な地位を有しています。このように存在物にとって相違の存在は神による差別や不公正とはみなされないのです。ラジオをお聞きの皆様、今夜はここで時間が来てしまいました。それでは次回のこの時間にお会いいたしましょう。