8月 16, 2016 15:34 Asia/Tokyo
  • サーサーン朝時代の女性たちの服装

この番組では、サーサーン朝時代の女性たちの服装についてお話ししましょう。

サーサーン朝時代、ゾロアスター教は当初の重要性を取り戻し、統治体制もゾロアスター教の司祭によって管理されていました。イランの女性は、当時、ゾロアスター教の教えのもとでさまざまな権利を手に入れました。ドイツの東洋学者は、サーサーン朝時代の女性の権利という書物の中で、女性たちは、夫を自由に選ぶ、知識を学ぶことができる、などの法的な権利を有していました。

 

しかし、サーサーン朝の社会は、政治や社会の点で、別の法に従っていました。それは階層制度に基づいたもので、奴隷が最も低い階層を占めていました。労働者と農民は、劣悪な経済状況の中で暮らし、よりよい未来への希望が持てないような状態にありました。このような状況の中で、階層社会の犠牲になっていたイラン人の女性たちは、ゾロアスター教の法の恩恵をそれほど受けることができませんでした。奴隷制が支持されていた社会において、宮廷という特殊な環境の中で、女性が真の独立を手にするのは明らかに不可能であり、法的に認められた権利は、ほとんど書物や紙の上だけの出来事でした。

 

女性の社会は、上層と下層の2つに分かれていました。どちらの社会の女性も独立しておらず、その服装でさえ、どの社会階層に属するかを示すものであり、貴族か召使いかを区別するのは、その服の着方のみでした。実際、人間の価値を決めていたのは富であり、そのため、下層階級の女性たちは、残念ながら、芸術の場面には分野には現れていません。貴族階級の女性たちの服装についてのみ、お話しすることができます。

 

ターゲボスターン、ナグシェロスタム、ビーシャープールなどのレリーフや、博物館にある杯などの金製品から、その服装を知ることができます。これらには、女王や演奏家が描かれており、壮大な宗教儀式、公式な儀式の様子は女性たちの祝祭の模様が分かります。

 

 

イラン西部の古代遺跡、ターゲボスターンのレリーフの中には、ゾロアスター教の女神、アナヒタによる戴冠式の様子が描かれ、当時の女性たちのおおよその服装が示されています。東洋芸術によれば、女神は王よりもずっと偉大な存在です。女神は王冠を被り、神を束ねた上に大きな巻き毛が載っています。額の上には半円の形をした冠があり、首の後ろで縛られています。冠からは、ひだのついた幅の広いリボンが出ていて、風になびいています。それはどうやら、サーサーン朝時代の特別な装飾であったようです。

 

アナヒタの服装は、縫製芸術における深い変化を示しています。服は細いベルトで2つの部分に分かれ、その両側は2つの輪のように前で結ばれ、その先はひだがあって、ぶら下がっています。アナヒタは方にマントを着ていて、シャツと同じように柔らかい布のように見えます。このマントは、リボンの先に縫い付けられた2つのボタンでとめられています。(次の一文カット) 右手には力の輪があり、リボンがついています。左手には壺があり、恐らく水と思われる液体が流れています。水だと思われる理由は、アナヒタが、水の女神だからです。

 

もう少し注意深く見てみると、このレリーフは、非常に重要な点を含んでいます。例えば、サーサーン朝時代の女性たちの服装は美しさと豊かさがその布にあり、男女とも、頭にかぶっているものは同じで、2種類のリボンがあり、ベールで覆われていました。これは当時の偉人たちの特典と見られていたようです。

 

ビーシャープール、あるいはベフシャープールは、241年から272年のシャープール1世の命により建設された遺跡で、サーサーン朝時代の宮廷の人々の文化や芸術、服装に関する資料となる、重要な史跡の一つです。ビーシャープールは、イランの古代都市の一つで、南部のファールス州にあり、サーサーン朝時代に建設されました。現在はその廃墟が残っているのみです。ビーシャープールは、13世紀まで、繁栄し、人々が暮らしていましたが、その後は廃墟となっています。ここには、アナヒタ寺院など、サーサーン朝時代の貴重な史跡が存在しています。

 

ビーシャープールの宮殿の数多くのサロンの中でも、注目を集めているのが、その周りがモザイクで装飾されたサロンで、その上には女性を称賛するデザインが見られます。そのうちの一つでは、立っている女性が、アナヒタと同じように長くて袖のあるシャツを着ており、そのシャツの下は膨らんでいて地面についています。ここでは、マントの代わりにショールが肩の上からかけられ、ほぼ全身を覆っています。これは祝祭専用の服装だったようです。その時代がサーサーン朝であることを考えると、このモザイクの中で、女性たちは演奏家などで、袖がなく襟の開いた服を身につけ、完全に宮廷の女性たちとは異なるスタイルになっています。

 

フランスの研究者は、イランでの2年間という本の中で、サーサーン朝イランで重要だったのは、女性の服装だけでなく、それを隠すことだったとしています。この時代、女性が肌を隠すことは非常に重要であり、長袖のチュニックの上に、さらに上着を着ていました。このような上着は、肩の上で縛られるか、頭からかぶる形のもので、後にローマの著名な女性たちが身につけるようになりました。

 

サーサーン朝時代の女性たちは、体の形を示すために、柔らかい布の動きを利用していました。このような特徴は、この時代から残る数多くの作品に見ることができます。ビーシャーブール宮殿のモザイクやタイルには、この種の服の例が見られます。

 

サーサーン朝時代の女性たちは、男性たちと同じようにズボンをはいていました。銀の皿には、ズボンをはいた女性が描かれています。一部の研究者は、丈の長いチュニックやズボンは、著名な女性たちが利用していたのではなく、一般の女性や召使いたちが身につけていたとしています。一部の書物では、2人のサーサーン朝の王妃が、青い色のズボンをはいていたとされています。

 

サーサーン朝時代も、それ以前の時代と同じように、女性たちはチャードルを、上着として利用し、その下にシャツを着ていました。また、イラン人の女性たちは顔を隠していました。サーサーン朝時代の被り物は、主に丸い帽子か長い帽子で、パルティア人のように、首を覆っているものもあれば、そうでないものもありました。時には細くて長いリボンがまかれ、装飾されていました。この時代の人々に好まれていたのは、赤、空色、緑でした。シャツには、袖の下や首のところに縁取りが付いたものもありました。布のデザインは、色とりどりの幾何学模様のもの、あるいは花模様となっていました。

 

サーサーン朝時代の女性たちは、肩の上、あるいは腕にショールをかけていました。それはインド人の女性のショールのように丈が長く、右か左の肩の上に置かれ、スカートの下まであり、独特の美しさがありました。これらのショールの役割は、恐らく、それを着ている人の社会的な立場と関係していました。シャツは丈が長く、靴が隠れて見えないほどでしたが、サーサーン朝時代の女性たちの靴は男性たちと同じで、多くが革製のブーツだったと考えられています。