医師の日、イブン・スィーナーの生誕日
毎年、イラン暦シャフリーヴァル月1日は、イランの偉大な医学者、イブン・スィーナーの生誕日として、医師の日とされています。
イブン・スィーナーが医学書を執筆し、医学に貢献したことにより、医師の日が定められました。
イブン・スィーナーは名声ある偉大な学者で、医学分野において、世界で最も優れた人物とみなされています。彼の医学書は、ある時期まで、世界の大学で教育に使われていました。この学者は、さまざまな学問に精通し、後の学者や思想家に影響を及ぼしたことから、イランだけでなく、西側世界でもイスラムの最も名声ある学者とされています。
イブン・スィーナーは西暦981年ごろ、当時のサーマーン朝の首都で、現在のウズベキスタンにあるブハラで生まれました。彼は幼いころから、学問の習得に関して驚くべき能力を持っていました。
イブン・スィーナーが5歳のころ、名士だった父から計算、数学、コーランの読誦、アラビア語の文法を教わりました。彼は幼いころから聡明で、学問を習うことに多大な情熱を持っていました。その後学校に行き、最も優れた生徒とされました。10歳のときにはコーランを暗誦しており、また文学や幾何学、アラビア語にも通じていました。彼は動植物や自然に特別な興味を持っており、何もないときは野原や砂漠を調べたりしていました。このようにして、子供時代から薬草の特性や医学に興味を持っていたのです。
イブン・スィーナーは12歳のころ、アブドッラー・ナーテリーという当時の大学者から学問を学びました。これ以前にもイブン・スィーナーはイスマーイール・ザーヘドという人物からイスラム法学を学んでいました。イブン・スィーナーは、しばしば学問における新たな側面を理解するほど、聡明であり、師を驚かせました。ナーテリーも、イブン・スィーナーの学習活動を奨励しました。こうして彼は論理学を学び、後に数学を完全な形で修めました。
イブン・スィーナーは、努力と忍耐のみによって学問を修めていました。彼は利用できるすべての本を利用し、自身の経験を生かし、偉大な学者による本を読むことで、医学を勉強しました。
イブン・スィーナーは18歳で、サーマーン朝の王であるヌーフ2世を問診することになりました。イブン・スィーナーはヌーフ2世の治療に当たって、ブハラの王立図書館の本を自由に利用できる許可を求めました。なぜなら、王族や貴族だけが、この図書館を利用することができたからです。この図書館は、当時もっとも完全な図書館とみなされ、ここには貴重な写本や古書の多くが収蔵されていました。
イブン・スィーナーが22歳のとき、彼の父が亡くなりました。この時期、サーマーン朝が衰退していたことで、ブハラは混乱に陥っていました。イブン・スィーナーは、当時学問や医学の中心地とされており、学者が尊重されていた中央アジアのハーラズムを訪れました。イブン・スィーナーも尊敬を集め、この時期、この地で落ち着いて仕事し、研究を行っていました。
しかしその後、ガズナ朝の王マフムード・ガズナヴィーがハーラズムに進出すると、学者たちは離散しました。彼らの一部はマフムードの招きによって現在のアフガニスタンにあるガズナに行きました。しかし、イブン・スィーナーはマフムードの招待を受け入れず、身の危険を感じハーラズムから退避しました。その後は数箇所の都市に短期間滞在した後、現在のイラン北部ゴルガーンにあたるジョルジャーンという町を訪れ、彼の代表的な医学書『医学典範』の執筆を手がけました。この著作は最大の医学書のひとつで、700年近くにわたり、ヨーロッパの学術機関で教えられていました。
ジョルジャーン来訪から1年後、イブン・スィーナーは、レイ、ガズヴィーン、その後ハメダーンのブワイフ朝の為政者シャムソッドウレの元に赴きました。イブン・スィーナーはシャムソッドウレの腹痛を治療し、大臣に起用されました。彼はこのとき、政治や統治の仕事を行っていた中で、『治癒の書』を執筆しました。この本はイブン・スィーナーの最も重要な著作で、哲学や論理学に関する包括的な作品とみなされており、その中には、古代ギリシャの偉大な哲学者の思想の要旨や、プラトン主義、新プラトン主義などの哲学の解釈に関する批評が記されています。
シャムソッドウレの死後、彼の息子があとを継ぎ、イブン・スィーナーは大臣の職を受け入れなかったため、4ヶ月間監獄に入れられました。監獄の中でも彼は本を執筆し、釈放された後は、ひそかに弟子と兄弟を伴い、イラン中部のイスファハーンに行きました。
イブン・スィーナーはイスファハーンでその地の為政者であるアラーオッドウレの歓迎を受け、アラーオッドウレと会談し、14年間、穏やかに生活しました。この時期、未完の作品の執筆を終了し、哲学や数学、音楽に関する新たな著作を執筆しました。しかし、ガズナ朝の王、マスウード・ガズナヴィーがイスファハーンに進攻すると、この中でアラーオッドウレの統治体制が崩壊しました。イブン・スィーナーの家は略奪を受け、一部の著作は散逸しました。しかし、イブン・スィーナーは、最期までアラーオッドウレに仕え、1038年ごろ、アラーオッドウレのハメダーン行きに同行する中、病気に倒れ、この世を去りました。
イブン・スィーナーは、医学に加えて、その他の学問にも精通していました。彼はイランおよびイスラム世界で最初の、哲学に関する完全で秩序立った著作を記した人物です。ギリシャの2大哲学者、プラトンとアリストテレス、そしてイランの哲学者ファーラービーが、イブン・スィーナーの哲学形成に大きな影響を与えています。彼は何よりもアリストテレス哲学を活用していましたが、アリストテレス哲学とはある程度異なる、新たな哲学的見解を持っていました。
イブン・スィーナーは独立した哲学を持っていた人物でした、イブン・スィーナーのギリシャ哲学の思想的影響は、単純にその思想を繰り返し語るというのものではなかったのです。彼はイスラムの神学にも注目しており、イスラム的思想を自身の哲学の中に取り入れようとしました。彼は晩年、哲学における新たな思想を獲得したということが伺える著作を執筆していますが、これは現在、散逸しています。
イブン・スィーナーの著作の中で、131点は彼が実際に記したもので、111点は彼の作ではないか、とみなされています。イブン・スィーナーの著作のうち、『治癒の書』と『医学典範』は世界的な名声を博しています。『治癒の書』は18巻におよび、論理学、数学、自然科学などの諸科学の一部について記されています。この本は現在も、イスラム論理学における最も信頼性ある本のひとつとされており、自然科学や神学については、現在も注目されています。
『医学典範』も、数世紀にわたり、最も重要な医学書とみなされてきました。この書籍には、医学に関する法則や、薬の調合に関するさまざまな内容が含まれています。この書籍は12世紀、翻訳の動きが始まったことで当時のラテン語に翻訳され、今日までに、英語、フランス語、ドイツ語、日本語に翻訳されました。
イブン・スィーナーは生きていた当時だけでなく、後の時代においても名声を博していました。このため、彼の子供時代や仕事、聡明さに関するさまざまな逸話が存在します。一部の逸話では、彼は秘密の事柄を含む全てを知っている賢者だとされています。
イブン・スィーナーは、著作を執筆しただけでなく、数人の弟子を育てています。そのいずれも、当時の学問の大家となりました。彼は58歳の若さでこの世を去りましたが、自身の信条によって人類の知識に対する貢献を果たしました。彼の廟はイラン西部のハメダーンにあります。
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