9月 05, 2016 17:10 Asia/Tokyo
  • イランの民族に伝わる子守唄

今回はイランの大衆文化の歴史から始めることにいたしましょう。続いてイランの民族に伝わる子守唄についてお話してまいりましょう。

前回の番組ではイランには多くの民族が住み、多様な文化を有していることをお話しました。その一方で、この土地の古い歴史は、文化や文明に特別な豊かさを与えてきました。この番組では、イランの様々な民族の文化をご紹介してまいります。今回はイランの大衆文化の歴史から始めることにいたしましょう。続いてイランの民族に伝わる子守唄についてお話してまいりましょう。

 

民謡は、大衆文学の一部で、俗謡や格言、伝説、なぞなぞ、労働の歌、宗教歌、子守歌、遊びの時に歌う歌、結婚式の歌、子供のための歌などがあります。これらの民謡の言葉は、地元の話し言葉です。

 

イランの大衆文化の記録は古い歴史を有しています。残された作品によれば、これが始まったのは16世紀から18世紀のサファヴィー朝時代だということです。サファヴィー朝時代の学者、ハーンサーリー・ローハーニーは、その時代の女性の信条や習慣に関する情報を集めて、書物の形にまとめた最初の人物です。この書物は実際、イランのフォークロアをまとめた最初の書物と見なされています。

 

ガージャール朝のナーセロッディーン・シャーの時代に、ミールザーハビーボッラーエスファハーニーが大衆の用語を集めました。彼はフランス語に精通していたことから、フランス人作家の「ハージーバーバーイー・エスファハーニー」を翻訳しました。この書籍は1900年に刊行されました。

 

ハビーボッラーエスファハーニーの後、1932年にデホダーが4冊組みの諺辞典を出版しました。1926年から1979年のパフラヴィー朝時代には、作家のサーデグ・ヘダーヤトがイランの人類学の基盤を築きました。というのも彼はこの時代に民謡や子供の歌、大衆の信条などに関する情報を集めたからです。実際ヘダーヤトはこうしてフォークロアの収集とその調査の方法を提示しました。ヘダーヤトは1932年、民謡に関する本を執筆し、1934年にもフォークロアに関する本を刊行しています。

 

人類学で民謡は、物質的文化と精神的文化の2つの視点から検討されます。衣食住、労働、婚約・結婚などの問題は、民謡の中の社会的、物質的要素となっています。また宗教、世界の不誠実さ、心の清らかさ、団結の精神、別離、郷愁、価値を知ることと知らないこと、自負心、名誉、寛大さ、ねたみ、賞賛などは精神的要素となっています。

 

民謡の言葉は難解ではなく、生活環境の影響を受けています。民謡の中のシンプルな韻律は、歌い手の思想の真正性やシンプルさを時により美しいものにしています。いずれにせよ、この思想や習慣が単に好まれているだけでなく、イランの名誉ある日々を思い起こすものであることを忘れるべきではないでしょう。

 

おそらく、誰もが生まれて初めて聴いた音楽は、子守唄ではないでしょうか。イランの子守唄は、文化的相違や地域の方言に注目すると、非常に多様なものとなっています。番組のここからはイランの民族の中で歌われている子守唄についてお話しすることにいたしましょう。

 

子守唄は、母と子の間で結ばれる最初の詩的契約です。それは目には見えませんが母の唇から子の耳に伝わるものであり、子供の深い安らかな眠りに影響を及ぼします。それは母の誠実な願い、理想を運ぶものであり、揺りかごのゆれが韻や繰り返しに加わります。この中で、母の子への願いは非常にシンプルに語られています。

 

子守唄は実際、各地の口承文学です。というのも母親は誰一人として書いたものを歌っているわけではなく、全ての母親たちがどこからどのようにしてそれを知ったのかは分からないからです。

 

おそらく、子守唄は母親達の純粋な希望や願いが込められたもので、人から人へ、世代から世代へと受け継がれてきたものであり、今も生き生きとしたものとして維持されています。ここでイラン北部のギーラーン州を訪れ、フェレイドゥン・プールレザーが歌う子守唄を聞いてみましょう。

 

実際、子守唄、この最も古い大衆の歌は、揺りかごのもとで女性の文学が始まった場所であり、その古さはもはや歴史的なものではなく、考古学的なものです。母は子守唄を歌うことで実際、揺りかごの中の子供と会話しています。子供がその言葉を理解していないことは知っていますが、母にとってはそれを子供に聞かせるだけで十分なのです。子守唄の詩は非常にシンプルで、時に韻律を外れていますが、その内容は非常に豊かで常に、母の将来の希望が込められており、それぞれの文化、民族、言語に基づき、社会状況に応じて変化を受け入れています。

 

民謡の特徴はシンプルな語り、流れるような言葉であり、それを理解するために熟考は必要ではなく、簡単に理解することができます。おそらく歌のシンプルさや短さは、村の社会における時間の価値観によるものでしょう。一方で、現実主義もまた民謡の特徴の一つとみなすべきです。一部の母親たちは子守唄や語りの中で子供たちに学問の重要性を説いています。

 

子守唄は、自然や人間の生活と深く結びつくと同時に、社会の文化の様々な側面を示す民謡の大部分を形成しています。イランの領土における民謡のこうした側面を拡大するには、それらを収集し分類分けし、紹介することが必要であり、研究者や人類学者はこうしたことに注目を寄せています。

 

子守唄は、大衆文学のジャンルの一つとして、村の住民や町に住む人の間でも広まっていますが、様々な地域において子供たちに異なった方法で歌われています。というのも子供は、子守唄の規則正しいリズムになだめられるからです。

 

子守唄の詩は、多くが、母の子に対する思い、苦しみ、愛情を歌っています。それは相手側の真の理解を得ようとするものではありません。これらの子守唄は方言や詩、形式に基づいて各部分に分けることができます。例として、イラン北部ギーラーン州のルードバール行政区周辺で歌われている子守唄の詩は、地域に存在する戦いの精神のため、多くが戦争や勇敢さについてのものが多いですが、地域の遊牧民の詩の多くは遊牧や郷愁、期待がテーマになっています。