9月 06, 2016 17:14 Asia/Tokyo
  • イランの東部の人々の服装

今回の番組では、イランの東部の人々の服装についてお話しましょう。

これまでの番組では、イスラム期以前のイラン人の服飾についてお話しました。それらは、文書の形で残っているもの、あるいは岩や壁に刻まれた資料に基づいたものです。この種の服装は、為政者や宮廷の関係者、貴族に限られたもので、一般の人々の服飾については表されていません。では、一般の人々の服装に関する情報は、どうすれば手に入るでしょうか。今回の番組では、イランの東部の人々の服装についてお話しましょう。

 

ドイツ・ハンブルク大学で教鞭をとる東洋学者は、イラン東部の人々の服装に関する今日の情報について、次のように記しています。「この情報は、古代の遺跡や文学作品から得ることができる。時の経過の中で、様々な社会的変化と共に地域ごとに違いがあったものの、衣服はほぼ同じ形で残っている。この中で、紀元前と、紀元後200年から600年の資料は、比較的豊富にある。これらは、男性と女性の正装、そして戦士たちの戦闘服の、主に3つの衣服を紹介するものである」

 

この東洋学者は、さらに次のように続けています。「男性の正装は、頭にまく布、シャツに似た衣服、前が開いた膝までの丈の上着、ベルトとズボン、靴と長いブーツであった。女性の服装は、時の経過と共に大きく変化し、長くて幅の広いマント、頭からかける布、丈の長いシャツだった。また戦士たちの戦闘服は、幾重にもなった鎧などであった」

 

アケメネス朝時代、タフテジャムシード・ペルセポリスのアパダナ宮殿の一部のレリーフに見られるイラン東部の人々は、その服装から2つのグループに分けられます。一つ目のグループは、イラン東部の高原、つまり、ヘラートの人々やスィースターン人、ハラウヴァティシュ族で、彼らは膝までのマントとズボン、丈の長いブーツを履いていました。もうひとつのグループは、サカ族、バルフ族、サッゲズ人、ハーラズム人などで、彼らは丈の長いズボンをはき、長いマントを肩から羽織っていました。このマントの背中の部分には斜めの縁取りがありました。ハーラズム人は、胸のところに布を巻き、肩から下げていました。また彼らは様々な種類の帽子を被っていました。

 

ギリシャの歴史家ヘロドトスは、イラン軍について説明する際、その階級や鎧について述べると共に、東部の人々の服装の特徴についても触れています。サカ族はズボンと先のとがった背の高い帽子、ハザル人などは皮のマントを着ていたとされています。

 

この時代の女性たちの絵画は、アナトリアのイランの行政官の石の墓と、パジリク古墳群でのみ、見られます。2枚の上着を着ており、一枚は頭から被り、もう一枚はベルトで締めています。パジリク古墳群の調査から、頭から足までの長さの袖のある上着、頭に巻く布、刺繍の施された靴と靴下といった服装の特徴が明らかになっています。

 

 

ソグド人のおよそ600年ごろの資料では、衣服に関する記述はわずかであり、ソグド人は、錦織の上着とベルトにのみ、言及されています。

 

イランの東部やトルキスタン西部の壁画からは、絹の刺繍が施されたマントが見られます。ズボンはブーツの外側に出しているものと、内側に入れているものがあります。戦士たちはフェルトの帽子や冠のようなものを被っていました。女性たちの服装については資料がありませんが、トルキスタンの壁画には、丈が長く、襟が開き、袖の長い女性の宴用の服装が描かれています。この時代、多くのイラン人は、唯一神信仰の宗教に従って先人たちを埋葬していたため、遺体と共に衣服を埋める習慣はなく、そのためにそれに関する資料は残っていません。

 

ソグド人に関するわずかな数の資料から、男性は、袖が長くて襟の丸い、裾の両側にスリットのある戦闘服を着ていたことが分かっています。襟の周り、袖の先、スリットの縁は、別のデザインの布で装飾されていました。鎖帷子は腰紐で止められ、首のところにはボタンが1個ついているだけでした。6世紀、鎖帷子はほぼ、丈の短いものでしたが、後に、すねの中央までの長さになりました。その下には何かを着ていた可能性があり、ズボンは丈の長いブーツの中に入れられていました。

 

男性は一般的に頭に布を巻いており、やわらかく先のとがった帽子や縁なしの帽子を被っていました。コインの模様からは、5世紀まで、王たちの象徴は、後頭部に帯の付いたシンプルな王冠でしたが、ブハラでは、5世紀にその上に三日月が加えられました。7世紀には、サーサーン朝時代の象徴である羽のついた王冠が広まっていましたが、先のとがった帽子も使用されていました。

 

ソグドの女性たちは、男性のようなマントと共に、鎖帷子を身につけていました。また、ショールを肩からかけていました。女神は袖の短いブラウスを身につけ、プリーツの多いスカートをはいていました。また袖はひじのところで斜めに切れ目が入っていました。また、一般に小さくて頭にフィットする帽子を被っていました。若い女性たちは髪の毛を5本に編んでおり、そのうちの2本は両側に、1本は後頭部にあり、その上には様々な方法でターバンが巻かれていました。

 

足元は男女とも、ヒールのない長いブーツを履いており、そのうちの2足が、考古学調査で発見されています。また、674年のブハラでの調査から、金の靴下と靴が発見されています。

 

 

ソグド人社会の裕福な階層の人々は、地域や民族の出身を考慮することなく、基本的に同じ衣服を着ており、その衣服の構造や縫製に特別な違いはありませんでした。一般の人々は、通常、安価でシンプルな布を使用していましたが、商人や貴族は、高価な絹の布や3種類、4種類のデザインの布を使用していました。それ以前の時代には、上流階級が使用する布の色は一色でしたが、7世紀には真珠の刺繍がついた光沢や模様のある絹の布が使われるようになりました。

 

8世紀になると、ベルトが、人々の社会的な状況を表すようになりました。貴族は金でできたベルトを締めていました。そのベルトは、金メッキの施された銅製のものであることもありました。