9月 24, 2016 16:51 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、コーランの第26章アル・シュアラー章詩人を見ていきましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

イスラムの預言者ムハンマドは、人々のために強く心を痛め、彼らの幸福と救済のために努力し、彼らに唯一神の信仰を呼びかけていました。預言者は、一部の人々が、コーランとイスラムの済んだ泉の傍らを通り過ぎ、信仰を寄せないのを目にし、深く心を痛めていました。そのとき、預言者ムハンマドを慰める、アル・シュアラー章の第3節が下されました。

 

第4節は、神がもし望んでいたら、空から彼らのもとに奇跡が降り注ぎ、全ての人がそれに対して、おのずと頭を垂れて屈服していた、という事実に触れています。しかし、このような強制的な信仰には価値がありません。重要なのは、人間が自分の意志によって信仰を寄せ、真理に対して謙虚になることなのです。

 

創造世界の存在物とその美しさについて調べること、それは神を知るための最良の方法です。神の力をしめすもののひとつは、植物のオスとメスの存在です。アル・シュアラー章の第7節には次のようにあります。

 

「彼らは大地を見なったのか。そこにどれほど多くの貴重な[植物の]つがいが育っているのかを」

 

かつて、人類は、一部の植物に、オスとメスがあることを知っており、植物が実をつけるために、それらを受粉させていました。このことは、ナツメヤシなどの一部の木のみについて、知られていました。しかし、18世紀、人類は、植物の世界におけるつがいの問題が、ほぼ一般的な原則であること、植物が実をつけるためには、動物と同じように、おしべとめしべの受粉が必要であることを突き止めました。しかし、これよりも何百年も前に、コーランは様々な節の中で、植物にオスとメスがあることを指摘していたのです。

 

アル・シュアラー章は、7人の神の預言者のたどった運命と、彼らが人類を導くために行った弛まぬ努力、多神教徒の頑なな態度について述べています。神の預言者たちの物語は、教訓にあふれています。預言者の目的ややり方はどれも似通っており、また反対者たちの彼らに対する態度も、同様のものです。そのため、彼らの歴史を知ることは、私たちにとって、道を切り開くものとなっています。コーランは、この宗教の指導者たちのたどった運命に触れ、イスラムの預言者ムハンマドと敬虔な人々を慰め、歴史の中で同じことが繰り返されてきたため、くじけないようにとしています。

 

神の預言者たちのたどった運命に関する節は、イスラム教徒が少数派で、敵が力を持っていたときに下されました。神は、以前の民の物語を述べることで、イスラム教徒に対し、敵の数の多さを前にしても、臆病になったりせず、全力で抵抗するようにとしています。

 

アル・シュアラー章は、預言者たちの物語をムーサーから始め、ムーサーの人生や、フィルアウンが海に溺れて死んでしまうまでの、この圧制者との争いについて述べています。

 

神の預言者たちの物語において注目に値するのは、人間を形成し、教育する側面です。預言者たちの導きの内容は、敬虔さの報奨と公正の追求です。これらの物語では、神のメッセージをそのまま伝える預言者たちの責任感、そしてそのために報奨を求めていないことが強調されています。それから、過去の民の重要な逸脱が述べられています。とはいえ、人々はいつの時代にも、世俗主義や欲望への追従によって、過去の民と同じ運命に陥ってしまう可能性があります。

 

ムーサーの物語では、フィルアウンの圧制について述べられています。フードの民について述べられている逸脱は、高慢さと世俗主義です。サーレハの民は、浪費と放蕩に耽っていました。また、ルートの民の特徴は、道徳的な逸脱と同性愛でした。シュアイブの民は、拝金主義者で、取り引きにおいて、ごまかしを行っていました。預言者たちはこれらの明らかな圧制や堕落、腐敗に対して立ち上がりました。それにも拘わらず、多くの人は道をはずれ、預言者の導きを否定しました。とはいえ、真理を否定した彼らには、神の痛ましい責め苦が下されました。シュアイブ、ルート、サーレハ、フードの民は、稲妻と大地の激しい揺れによって消滅し、ヌーフの民は、洪水と嵐によって絶滅しました。