神が預言者を人類に遣わす必要性(2)
前回の番組では、神が預言者たちを人類に遣わした理由についてお話しました。今回もこの問題についてお話しすることにいたしましょう。
私たちは、生命は決まった目的のために創造され、目的に向かって進んでいるということを知っています。人間もまた、生命の一部であり、世界は人間のために創造されています。このため人間は生命の一部として、無目的にそれとの調和なくして生きることはできません。英知の神は、人間の進む道においては、逸脱の道と断崖絶壁が存在すること、さらに欲が人間を正しい道から逸脱させることをよく知っています。こうした中、英知の神は、人生の危険に溢れた道において、地図や道案内なしに人間をそのまま放置するのでしょうか?
明らかに、創造主は創造のシステムや存在物をそれにふさわしい完成に導く道において労を惜しまず、人間の人生とその運命についてもまた、考慮しています。前回の番組でお話したように、人間は目的とそれに至る道を知ったときに初めて意識的に、自由に完成の道を選択することができます。このため神の統治には、このような知識を学ぶために必要な手段を人間に授け、幸福の道を進めるようにすることが要求されます。こうした手段の一つが知力です。このためイスラムは知性を特に重視しており、それを内なる預言者と呼んでいます。さらにイスラムほど人間を学問と知識の習得に呼びかけている宗教はありません。イスラムは人間に、揺りかごから墓場まで知識を求めるべきであるとし、1時間の思考は70年の礼拝に優るとしています。
思考が重視されているにもかかわらず、思想家は科学のさまざまな分野での人間の多くの業績は、人間のすべてのニーズに応えるものではなく、こうした知識は人間が将来知るべきものに比べて取るに足らないものだとしています。人間の創造の秘密を探るために行われてきた多くの努力にも関わらず、今も精神の分野で人間が知らないことはたくさんあります。
実際、人間自体が非常に複雑で神秘的な存在であり、簡単に人間を理解することはできません。このため人間の幸福のために、人間の教えが提示しているアプローチや計画は、多くの欠点や不足があり、包括的な見方に欠けています。というのも、もし科学が人間の完成のための計画を提示しようとするなら、人間の持つすべての能力を知り、様々なニーズを考慮すべきだからです。
人間科学の分野で優れた功績を持つ思想家や教授たちは、人間の事実を知らなければ、導きの計画は人間にとって永久のものではないと考えています。人間にとって良好な法規を制定することにおいても、人間の完全な性質を知り、また社会やその複雑な関係を知ることが必要です。
このように、知性や学問は人間が生きる上でのニーズを満たす上で、大きな役割を担っていますが、すべての側面での完成と幸福の道を知るためには、それだけでは十分ではありません。人間は知性の助けによりある程度まで、善悪と利害を認識します。こうした中、ときに欲望の黒い雲が理性に影を落とし、人間の視界を暗闇で覆うとき、人間は正誤の道の区別において過ちを犯します。正誤の場所を確認できず、不正を正義と見たり、正義が不正に見えたりすることもあります。またときに怒り、欲望、愛情、狂信と言った状態が正誤の識別を妨げ、人間を事実の理解から遠ざけます。このため私たちは、この荒れ狂う世界において、私たちを創造の目的に到達させる知性に優る導きを必要としています。この目的は、直接生命の起源から受けた神の教え、預言者の清らかな教えによって、実現することができるのです。
世界各国の法の制定の歴史を見てみると、選り抜きの専門家たちの慎重な見解と研究の結果生まれた多くの法規が、時代の経過と、さらなる詳しい調査を経て、その不完全さや矛盾が明らかになっていることが伺えます。このことは人間の思考から生まれたすべての発見が効果がなく、間違っているということを意味するのではなく、こうした法制度は一連の過ちの存在により、人間の様々なニーズを満たしたり、社会を公正に運営したりする力を有していないということです。人間の幸福のために学者たちの貴重な見解が提示されたのは確かですが、それは人間の存在のすべての側面を含むものではありません。というのも、人間の理解と知力の範囲は限定されており、多くの問題が人間の思考範囲を超えているからです。
人間が自分自身を大事にする気持ちは、意識する、しないに関わらず、自分の都合のよいように問題を眺め、現実的な見方を妨げます、ときに利益追求は、人間の中の破壊的な力の形で実行されます。このような人間は常に秩序を乱し、他者の権利を侵略することを考えており、あらゆる可能な形で、自らの利益を確保しようとします。こうした人間の性質に注目すると、人間が中立の立場で物事を分析し、公正な法規を制定できると言う保障はありません。人間が非常に進歩し、あらゆる角度から自らを認識し、解明されていない秘密を解き明かしたとしても、人間は当然、利益追求と欲望に傾く傾向にあることから、それだけで自らの幸福を保証することはできないでしょう。
現代世界において、人間は科学技術の点で多くの進展を遂げてきましたが、残念ながら、無秩序、差別、不平等、戦争、暴力、流血が減少することはなく、ある場合にはそれは拡大しています。それは、人間の思考からうまれた世界のシステムが法的に脆弱であるためであり、そのために不足や欠陥に満ち溢れ、不公正や精神性の欠如に苦しんでいるのです。これ自体、精神的な価値に注目をおかずに制定された人間の法規が未熟で、害を受けやすいという事実を証明するものです。こうした法規は、それだけで人間を向上させるという責任を果たすことはできません。なぜなら望む、望まざるとにかかわらず、それらを調整した人間の欲や利益追求の影響下に置かれているからです。立法者は、正しい認識を妨げる野心や利己主義、その他の傾向や欲などの要素から免れているべきです。なぜならこれらの要素によって人間は善悪の判断や公正の正しい認識、その実行方法においても見解の対立を生じさせるからです。
これまで述べてきたことに注目すると、問題解決のために人間に法規を制定する人は、肉体的、精神的に健康で完全な知識を備えているべきであると言えるでしょう。この他、公正であり、自分の利益よりも他人の利益や権利を優先する人であるべきです。明らかにこうした立法行為ができるのは神だけです。彼は人間のために法を制定するにふさわしい英知の神であり、その知識は尽きることがなく、すべての生命を包括するものです。彼は人間を創造し、その存在の美しさを良く知り、人間や世界の変化を認識し、人間の完成の要因と障害を知っています。
明らかに神は人間をそのままの状態に放置しておくことはなく、その公正で救いのある法規や教義を使者を通じて人間にもたらしています。彼らは曇りのない鏡のように真理のメッセージを受け取り、十分に人間に反映させます。こうして預言者たちは幸福の憲章を人類にもたらし、神は彼らを通して人間に最後通告を行っています。コーラン第4章アン・ニサーァ章、婦人、第165節には次のようにあります。
「(我々が送った)預言者たちは、吉報や警告を伝える者であり、預言者たちの後に、人々が神について論争しないように(すべての人に最後通告がなされるように)するためである。神は全知全能であられる」
知性や理性がそれだけで人間を導くために十分であるなら、預言者や啓示は必要なかったでしょう。この節によれば、預言者の出現により、導きの道は完成し、最後通告が人間に下されました。神の教えを理解するためには、思考を用いるべきです。このため神の教えと思考は、栄誉と幸福に向かうために人間が必要とするものです。次回の番組ではこの問題についてお話しすることにいたしましょう。