預言者たちの出現の必要性
今回の番組では、預言者の原則に関して、預言者たちの出現の必要性についてお話しすることにいたしましょう。
前回の番組でお話したように、神は預言者を通じて、健全で正しい生き方を人間に示しています。言い換えれば、法の制定者の地位にふさわしいのは、唯一世界の神といえるでしょう。神自身も、コーランの中で、預言者を遣わした理由を、人間の導きと彼らへの最後通告だとしています。
神は世界のすべてを人間が利用できるように創造し、人間に自らに服従することで、永遠の幸福に至るよう呼びかけています。とはえい人間はその正しい道を知らず、道の選択において過ちに直面する可能性があります。加えて、その道においては悪魔の誘惑や様々な危険性が潜んでいます。そのため神は人間を導くための奇跡の明るい灯火を持った、預言者のような指導者を派遣したのです。
明らかに、人間の向上に向かう動きは出発点と目的地、その間の道のり、そして手段や導きを必要とします。これらの中で、より必要性があるのが指導者の存在です。なぜならもし指導者や導き手がいなければ、道や目的を見失い、正しい道においてせっかくの手段も活用することができないからです。今夜の番組では、前回に続き、人間が制定する法規の欠陥や不足、こうした弱さの理由についてお話してまいりましょう。
現在、新しい科学・専門機関が次々と開設され、新しい発明や革新が日ごとに人間の知識や技術の裾野を拡大しています。明らかにこれは人間にとって名誉なことです。こうした中、ここ100年の世界の情勢を見てみると、発展や向上に向かっていた一部の社会が発展と共に精神性や宗教的な教えから離れ、多くの問題を抱えていることがわかります。
腐敗、混乱、差別、不平等、家族の基盤の崩壊、暴力、殺人、様々な問題や精神疾患は、宗教や道徳、精神性が欠如した生活が生み出したものです。この問題は、科学や知識だけでは、人間に幸福の道を保証するような公正で人間性を伴う包括的な法を作ることができないということを示しています。このように人間の将来を科学や知識だけに委ねたとしても、正しい道を進むことはできないでしょう。なぜなら、進むべき道において、逸脱や障害、迷いの要因となるものは多く存在し、それらは人間にとって未知のものであるからです。
聡明で、いわゆる文明化した人間も、ときに激しい怒りといった感情の影響を受け、理性を失い、狂気じみた行動に出ることもあります。世界の大戦争や民族紛争で、そうしたことは多く目にすることができます。このため、社会で起こっている多くの紛争や対立は、表面上は見識があり、聡明そうな人間から発生しているということができるでしょう。こうした紛争の源である知性が、どのように人類社会の紛争や緊張を取り除くことができるのでしょうか?一方で、時に人間の知識にも限界があります。人間は過去や未来の事に関して正しい情報を得ていません。また自らの行いの様々な反響に関しても正確な情報を得られず、正誤の判断を誤っているのです。
人間への環境の影響は、人間が作る法規の欠陥や不備の要因です。多くの問題に関する人間の意見や理解、判断は、文化的、社会的に様々な状況の影響を受けています。例えば、平和と公正、平等という言葉は様々に理解されます。こうした言葉についての個人やグループの理解や判別は、彼らの見方に注目するとそれぞれに異なっています。法律の制定者は社会の世論の影響を受け、周りの環境から受けたものを明らかな、疑いのない真実と見なしており、望む望まざるとに関わらず、法律の作成時に、社会の思想や文化の影響を受けます。このため、社会を占める文化によって彼らは現実主義的な見方を奪われ、真実をあるがままに見ることはできないのです。
また人間の意見は、人生の様々な状況、出来事、発展の中で、変化を遂げていきます。人間が権力の地位に訴えるとき、その思想は、周囲の人々のものとは異なり、この二つの立場においては異なった物の見方がなされます。ときに状況の変化により、その考え方は一変し、すべての事柄が違う色を帯びているように見えることもあります。
忘れてはならない問題は、法律の制定者は法の制定の際に、たいてい多数の要望や意見を考慮し、人々の本当の利益になるものを考慮しません。そのためときに多数が求める法を制定しますが、それは個人や社会に害をもたらす可能性があります。例えば、一部の先進国での売春や同性婚に関する法規などがそれにあたります。
また人間の法規のもう一つの問題は、それらが必要な実行の保証を有していないということです。実際、人間の楽を求める性質は、社会的な法規と一致しません。まるで法規が鎖のように人間の手足を縛り、彼を制限し、自由を奪うようなものです。このため人間は常に、この鎖を引き裂いて自由を手にしようとします。これは社会的な法規にとって大きな脅迫であり、その柱を揺るがすものです。このため、常に社会的な法規の傍らで、別の懲罰のための法規が考慮されており、こうして人間を法律違反から遠ざけています。とはいえときに人々を法律に従わせるために奨励する方法をとることもあります。明らかに懲罰を恐れ、褒賞を受けることへの期待は、ある程度法規の実施を促していますが、違反の道を完全に止めることはできません。なぜなら懲罰もまた違反されることがあり、人間がそれに従わない可能性もあるからです。
ではどのようにして人間を従わせ、法律違反を防ぐことができるのでしょうか。主な問題は、人間の法規が人間の物質的な側面のみを考慮し、その宗教や精神性に向かう傾向に注視していないことにあります。人間の法規の目的は、調和と秩序の維持、人間の行動の中に均衡を生じさせ、それらの間の対立や葛藤につながらないようにすることです。こうした法規は一般に、人間の性質や本能、内なる行動に作用しません。それは良好で建設的な行動、あるいは法律に反する行動の動機となりえる要素です。こうした中、利己主義や欲求など人間の一部の内なる傾向は、社会の腐敗や混乱の多くの原因となっています。それゆえ法律の実行者や警察などの社会の監視の目がないところでは、違反者があらゆる犯罪を行うことになります。
宗教の導きにより、人間は、人生はこの世の何日かの生活に限られず、死によって終わることのない無限の永遠の生命を有しているという事実を確信します。人間は、最終的にいつかは神の御前で、様々な行いを調査され、その行動の報いを受けることになると信じています。この考え方において、神は英知があり、すべてのものが聞こえ、見える存在であり、天と地の小さな事柄についても知っています。神がいつでも自分の行動を監視していると考えている中、人間は罪深い行為を行うことができるのでしょうか。警察のようなコントロールする存在がいない場所でも、人間は罪を犯さず、侵略せず、他人の財産も盗みません。なぜならそこに神がいることを信じているからです。
そうです、神への信仰は、非常に強い力によって人間を、罪を犯したり法律に違反したりすることから引き離しているのです。彼は多くの喜びをもって善行にいそしみ、好ましからざる行為から距離をとり、どちらの場合にも内なる喜びを感じます。こうした特徴が神の法であり、人間を善行に奨励し、間違った愚かな行いから引き離します。このように宗教法における監視やコントロールの原則は効果的であり、この法は確かな実行を保証するものなのです。
人間の思考だけでは、多くの困難を伴う道において人間を導くためには十分ではなく、人間が社会生活で制定した法律は人間のすべてのニーズを満たすことはできません。概してこのために預言者が遣わされたのです。さらにこうした法規は必要な有用性を得ていません。そのため法の制定者は、唯一全知全能の神だけなのです。その知識には制限がなく、法の制定において誰の要求の影響もうけません。人間のニーズを完全に知り、その法は全世界を含む包括的で幅広いものです。興味深いのは人間を法に従わせ、神の法の実行を保証するために、人間に対し一連の報酬や懲罰を公正に考慮しているという点です。