神の預言者たちの特徴
今回も引き続き、神の預言者たちの特徴についてお話しましょう。
明らかに、預言者という地位を得るためには、この地位にしかるべき、一連の特徴を有していなければなりません。これまで数回に渡り、神の預言者たちの性質や特徴についてお話ししました。今夜のこの時間は、神の預言者の特徴の一つである、罪や過ちを犯さない不びゅう性についてお話ししましょう。
神の預言者たちは、人類社会を導く責務を負っています。そのため、預言者に任命される前であろうと、その後であろうと、その人生を通して、罪や相応しく行いとの関係を断ち切っていなければなりません。この罪や過ちを犯さない不びゅう性は、内面的な抑止力であり、それは信仰と完全な確信によって人間の中に生まれるものです。神の預言者たちは、罪や穢れを一切免れた存在です。つまり、内面の欲望によって、罪に穢れたり、過ちを犯したりすることはありません。言い換えれば、そのような不びゅう性が、預言者を、あらゆる道徳的な大敗、罪、引いては罪を犯すことを考えることから守り、人生において、一切の罪や過ち免れるのです。
では、預言者の不びゅう性は、人類社会にどのような影響を与えているのでしょうか。最初の答えとして挙げられるのは、人々が、神から遣わされたと主張する人物に対して、信頼を寄せるべきだということであり、そうでなければ、すべての事柄は、曖昧な幕に覆われてしまうということです。すでにお話ししたように、神の預言者が遣わされた最大の目的は、一連の神の教えによって、様々な世代の人類を導き、教育することです。人々は、宗教的な指示や計画に沿って、現世と来世の幸福を保障する、この至高なる法則に従う必要があります。当然、人々がこれらの教えを真剣に捉え、心がけるようになるのは、それらが世界の創造主である神からのものだと確信するときです。
人々が、啓示を伝えられ、受け取る段階で、神の預言者に完全な信頼を寄せていなければ、人類を成長させる預言者の目的は達成されません。もし神の預言者たちが、逸脱や過ちを免れていなければ、人間として完成していたとしても、常に、現世の魅惑的な美しい表面、地位や富に惑わされ、過ちを犯す可能性が存在します。そのため、人々は、預言者の指示を実行することをためらったり、疑ったりします。こうしたことから、預言者として人々を導く人物が、逸脱の過去を持っていれば、その人を清らかさや美徳の模範、指導者として受け入れることはできません。
いかなる人間も、汚点にまみれた人生を持つ人物の言葉を完全に信頼し、神の指示や啓示として受け入れ、その教えを、疑う余地のない天からのメッセージと見なすことはできません。そのため、預言者を主張する人物の言葉を人々に信じさせ、そのメッセージを受け入れさせる第一の条件は、預言者たちが、罪や穢れとは無縁の、純潔で清らかな存在であることです。人々の心の底から湧き立つ神の預言者への敬愛は、この偉人たちの道徳的な気高さと不びゅう性によって得られるものです。明らかに、行動の影響は、言葉のそれをはるかに上回ります。指導者の性質や行動の質は、その人の教育を受ける人々にとって、大きな意味を持ちます。そのため、人々は何よりも、預言者の言葉以上に、その行動や人格の影響を受けるのです。
明らかに、精神的、道徳的な点で欠点を持つ人物は、人々を道徳的に指導する立場には立てず、完全な人間を育てることもできません。神の預言者は、創造主である神と常に強固な関係を持ち、罪や過ちで穢れていないことが必須の条件です。人生の中で堕落に陥り、少し前まで罪を犯す人間の一人であった人物は、人々の記憶の中にその過去が刻まれ、容易に忘れ去られることはありません。精神的な深い変化の始まりでさえ、それだけでは、その堕落の過去を消し去ることはできません。
神の預言者たちは、罪や穢れを免れているため、彼らの人生を見れば、彼らの天啓の教えの拡大を阻止しようとしていた敵たちでさえ、預言者を穢れや腐敗で非難することはできなかったことが分かります。預言者は、その時代の人々にとって、よく知られた存在であり、栄光と輝きに満ちていたため、そのような愚かな非難を信じる者は誰もいませんでした。預言者が使命を受ける前に一度でも、罪を犯した過去があったなら、敵は預言者の社会的な信用を失わせるために、それを利用していたことでしょう。過去の弱点を指摘することは、相手に最も大きなダメージを与えられる手段であり、これにより、神の預言者の信用を失わせ、人々の信頼を揺るがすことができます。このこと自体、神の預言者たちが、使命を授かる前にも、人々の間で清廉潔白であったことを明らかにしています。
驚くべきなのは、神の預言者が育った環境は、社会的な堕落と闇に包まれていたことです。社会の穢れや堕落により、神の預言者たちは、その時代の状況に応じて、その環境に染まっていたはずでした。しかし、この人間の栄誉や美徳の象徴である預言者たちは、環境の影響を受けることはなく、人類の歴史の中で輝きを放っています。それは、神の預言者たちが、堕落した環境に染まっていく他の人間とは明らかに異なることを示しています。
ここまでお話ししたことから、神の預言者の人格と彼らが罪や過ちを一切免れていたことが、さらに明らかになるでしょう。ではなぜ、神の預言者たちは、なぜ、一切の罪や過ちを犯さなかったのでしょうか?いつでも罪を犯そうとすれば、目に見えない存在からの使者や外的な要因によって、その任務を妨げられるからでしょうか?それとも、預言者たちが、天使のように、その性質上、罪や過ちを犯す可能性を持っていないためでしょうか?
天使は、人間とは異なる存在であり、罪や過ちを犯すことができません。いずれにせよ、そのような事柄のいずれも、預言者が罪や過ちを犯さない理由ではありません。預言者たちはどのような状態にあっても、創造主である神が、自分の行動を監視していると考え、深い信仰心と敬虔さから、意識的に、わずかたりとも、罪に近づくことがないのです。もし外的な要因によって、やむを得ず人間が罪を犯すことを阻止されたり、罪を犯す力がなかったりしても、それは彼らにとって、罪を犯さなかったことにはなりません。その場合は、刑務所にいるために、罪を犯すことができないのと同じです。このような人々が罪を犯さないからといって、それを彼らの善良さや正しさのしるしと見なすことはできません。しかし、神の預言者たちは、このような人々とは異なり、自分の意志によって、完全に自由な形で、相応しくない行いや醜い行動から遠ざかっているのです。
コーランは、預言者が罪や過ちを犯さないことを特に強調しています。コーランでは、社会の指導者、預言者という高い地位への到達は、罪という穢れから遠ざかり、精神的、道徳的な成長を遂げることによってのみ、可能であるとされています。例えば、預言者イブラヒームが神に、自分の世代の中から指導者を選んでほしいと神に求めたとき、神ははっきりと、神の契約や約束、指導者の地位は、圧制者には届けられないと答えています。言い換えれば、圧制を避けることを、指導者としての条件に挙げています。コーラン第2章アル・バガラ章雌牛、第124節にはこれについて次のようにあります。
「[思い起こすがよい。]神がイブラヒームを[困難な]事柄によって試し、彼がそれらすべてを遂行したときのことを。神は仰った。『私はあなたを人々の指導者にした』 イブラヒームは言った。『私の一族から[も指導者を据えてください]』 神は仰った。『私の契約は、圧制者には届かない』」
このように、コーランは、預言者の地位に到達するのに必要な条件として、圧制や罪にけがれていない不びゅう性を挙げています。こうしたことから、神は、指導者としての地位が、罪や堕落、闇で覆われた心を持ち、圧制や侵略に手を染めた人物に渡ることを許すことはないと言えるでしょう。