4月 09, 2017 15:00 Asia/Tokyo
  • マールリークの丘から見つかった杯
    マールリークの丘から見つかった杯

今回はイランの金属工芸の歴史についてお話しすることにいたしましょう。

前回の番組では、金属の多様な作品の発見と考古学的調査に基づき、有史時代を金属工芸が開花した時代と見なすことができるとお話しました。金属工芸は、人間が金属と他の物質を分け、金属製品として形を与えていく産業です。金属工芸において、彫刻の技術の他、金属の耐久性が非常に重要となっています。このため金属の耐久性を高めるために他の金属も使用されています。

 

人間が金属や鉱物の存在する土地だけで金属を利用できるのは明らかです。イランは自然の点で、大きな鉱山資源を有しています。その鉱脈はトルコのトロス山脈からイラン北部のマーザンダラーンの南岸まで続いており、各種の鉱物や天然資源を豊富に有しており、金属細工の知識はそこからアジア、アフリカ、ヨーロッパのほかの地域に広まっていきました。

 

イラン北部でも、山の中心部に銅鉱脈が走っています。10世紀のアラブの地理学者イブン・フーゲルは、イラン北東部ホラーサーン地域にある銅鉱脈の名前を挙げており、それはイランの価値ある美しい品々を生産する源であり、伝統工芸の歴史はそれらを誇りにしています。さらに、カーシャーン、イスファハーン、ブハラなどの町の銅鉱脈は、7世紀に非常に重要性が高く、莫大な利益を生み出しました。

青銅のお皿、サーサーン朝時代

 

青銅、合金は銅とすずの二つの金属を組み合わせたもので、それから様々な道具や彫像が作られます。青銅は人間が見つけた最も古い合金です。銅鉱山では通常、天然の合金としてスズが混じった銅が存在します。このため人間によって作られた最初の金属器は青銅製となっています。

 

考古学的発掘は、紀元前5000年のイランの住民が青銅の合金の存在を知っており、それを人工的な金属を作るために使用していたことを示しています。世界各地で見つかった青銅の人工物は、これより古いものはありません。このため青銅器時代は紀元前5000年から始まると考えられています。青銅は赤、薄い赤、オレンジといった色で、銅よりも溶けやすくなっています。

 

イランの青銅産業の中心となる地域のひとつに、ロレスターンがあります。ロレスターンはイラン西部にあり、狭い谷と高い山があります。存在する資料は、紀元前4000年期のロレスターンの金属工芸について指摘しています。ロレスターンの金属器は、半世紀前から、様々な研究者によって注目され、世界の大きな博物館に所蔵されています。

 

1930年頃から美しい金属製品が世界の骨董品市場に出回るようになりました。これらは違法な発掘やアンティークの密売人によって発見されたものです。これらの人々は周辺にきれいに石が敷き詰められている墓は、昔死者と共に高価な装飾品が埋められていたことを知っていました。これらの品々の上に施されているデザインや芸術は非常に美しく、心打つものであり、専門家を驚かせるものでした。これらの品々の一部にはアッシリア文字が書かれており、日付や製造者を明確にしています。それらのいくつかは紀元前12世紀から10世紀のものですが。多くが紀元前8世紀から7世紀のものです。

 

研究者はロレスターンの青銅器をシンプルな作業の結果であり、それらは好戦的な農耕民族の数百年にわたる物質革命を物語っているとしています。ロレスターンの青銅器芸術の重要性は、先人の芸術と伝統の移転、宗教的に共通のテーマや法的な表現の移転にあり、すべての狩猟、農耕民族にとって、賞賛に値するものとなっています。ザグロスの芸術家たちによる品々、道具は非常に多く、その中で、盾や剣などの戦争道具、装飾品、器などを挙げることができます。これらの作品には頭部は人間で体が動物の伝説上の動物や獲物などが描かれています。

 

実際、古代の世界の物質文化において、ロレスターンの青銅器ほど、複雑で発展したデザインや組み合わせを持ったものは見つかっていません。これらの作品にはアッシリア、ヒッタイト、サカなどの文明の影響が多く見られます。一方でカーシャーンの近くのタッペ・スィアルクで見つかったデザインがそれらの中には多く見られます。ロレスターンの芸術家たちは青銅器を鋳ることに長けており、まるでこれらの青銅器の多くは蝋の型で正確に鋳られたかのように見えます。これらの作品は鋳造だけで、美しい細部や形を作り出していました。ロレスターンの青銅器はイランや世界の金属細工や青銅器芸術の壮麗さを体現しています。

 

紀元300年、古い書物には、中国がサーサーン朝時代にイランから鋼を入れていたと書かれています。この書物は特に、イランの鋼の表面の渦巻き状の線について語っています。このことからイランから中国に入った鉄は波打ったものだったと言えます。このことはイギリスの研究者ジョセフ・ニードハムを、鉄を波打たせる技術はイランから発生したものだと確信させました。ローマ人がパールティーの鋼、あるいはイランの鋼と呼んでいたものは質の点でインドの鋼に並んでいました。

 

鉄は紀元前3000年期にはメソポタミアや小アジアで知られていましたが、固くて金槌で打てないこと、溶解しにくいことで地位を得ることができず、こうして鉄を鋼に変えることで金属細工に革命が起こりました。その後鉄も人間によって道具を作る中で使われるようになり、その芸術と産業がさらに新しい分野に入りました。

 

鉄を使用していたイランの金属細工の主な中心地は、アーザルバイジャーン、ケルマーン、ロレスターンでした。サーサーン朝時代は金属細工など手工芸が開花した時代とされ、日常で使用する、また装飾用の品々を製造するために鉄など様々な金属が使用されていました。とはいえ、これらの品々の一部はインド北部、ポーランド、中央アジア、ウラル山脈、そして多くがロシアで発見されており、様々な国でのこれらの存在はその時代に品々が取引されていたことを示しています。

マールリークの丘から見つかったもの

 

タッペ・マールリークの丘はイラン北部のギーラーン州のゴウハルルード渓谷を流れるセフィードルード川の川岸にある古代の丘です。タッペ・マールリークは少なくとも3000年前の古代文明のものであり、研究者はこの丘は為政者や王たちの墓だったと考えています。

 

タッペ・マールリークは1960年代まで知られていませんでしたが、イランの考古学チームがこの地域の調査に乗り出しました。この平原では多くの古代の丘が存在し、マールリークは他の4つの丘と共に重要なものとなっています。この丘には25の墓が存在し、それらの一部には骨が残されていました。すべての墓では陶器の器や装飾用のボタン、杯、金や銀、青銅、剣、彫像、槍などが見つかっています。

マールリークの丘から見つかった杯

 

この文明の人々にとって、太陽は非常に重要なものであり、その模様は多くの杯や器などの表面に幾何学模様の形で刻まれています。この丘から見つかったもの、とくに青銅器はカーシャーンのスィアルクから見つかった品々によく似ています。一方で、マールリークの杯は、この丘から見つかったもっとも有名な作品で、純金でできており、高さは18センチ、レリーフの厚みは2センチになります。杯の模様は生命の木で、2頭の翼を持った牛が木の両側をのぼっています。この杯がイランの模様であることを示すのは、動物の体の片面が示されているのと、その頭が前方を向いていることです。この杯の表面には花が描かれており、その中で光線を放った太陽が刻まれています。