アブラハと象の軍隊
イエメンの支配者となったエチオピアの司令官アブラハと、彼が率いる象の軍隊がたどった運命についてのお話です。
アブラハは、側近の一人との話に夢中になっていました。アブラハは言いました。
「イエメンが我々のものとなった今、キリスト教を広め、その信者たちの信仰をより固いものにしなければならない」
すると、相手は言いました。
「しかし、人々は毎年、神の家である神聖なカアバ神殿を巡礼するために、メッカを目指しております。まずは人々の心を、メッカから別のところへと向けさせなければなりません」
アブラハは言いました。
「お前の言う通りだ。だが、それはさして難しいことではない。壮麗な教会を建てるのだ。そのあまりの壮麗さに、人々は教会へと足を運ぶようになるだろう」
イエメンのサヌアの町では、大きな騒ぎが起こっていました。人々は驚いて、町に新しく建てられた壮大な教会を見上げていました。そして、その教会の随所に施されている装飾に人々は目を奪われ、あちらこちらを彩る美しい布や緞帳が、人々の視線を釘付けにしていました。アブラハは確信しました。この計画をもって、カアバ神殿との競争が始まったのだと。しかし、それからまもなくして、メッカ巡礼の時期が訪れたとき、人々はアブラハが建てた教会には眼もくれず、こぞってメッカへの巡礼に赴いていきました。アブラハは、自分の教会が、人々の心を惹きつけることに失敗したのを知って、憤慨しました。そして、こう誓ったのです。
「こうなったらイブラヒームとイスマイールが建てたカアバ神殿を破壊し、根こそぎにしてやるのだ」。
アブラハはそのために、大がかりな軍勢の準備に取り掛かりました。
アラブの部族の人々は、不安な面持ちで集まっていました。一人が言いました。
「何としたことだろう。一人のエチオピア人によってカアバ神殿が破壊されようとしているというのに、我々にはただそれを眺めていることしかできないのか」
別の一人が言いました。
「私たちが彼に太刀打ちできるわけがない。アブラハは馬や象、その他、大勢の兵士を従えてメッカに向かっているのだ。彼がこれまで行ってきた数々の侵略に、人々は震えあがっている。イエメンの貴族のズーナファルは、軍勢とともにアブラハとの戦いに立ち上がった。だが、あっと言う間にアブラハに敗北を喫してしまったではないか。そして今、ズーナファルはアブラハによって囚われの身となっている。我々も彼に降伏した方がよさそうだ」
アブラハは、大いに自尊心を満足させながら、テントの中に座っていました。そこへ見張りが入ってきて言いました。
「ただ今、メッカのクライシュ族の長、アブドルモタッレブがテントの外に来ております。話があるのでテントに入りたいと申しておりますが。」
アブラハは許可しました。アブドルモタッレブがテントの中へと入ってきました。その威厳に満ちた姿に、思わずアブラハは、立ち上がって彼を出迎えました。
「何の御用でお越しか」
とアブラハは尋ねました。
アブドルモタッレブは穏やかな口調で言いました。
「あなたの軍勢が、私のラクダを捕らえていると聞いております。そこで、それを返してもらいたく、こうしてやって参りました。」
アブラハは言いました。
「おやおや、何としたことだ。私はカアバ神殿を破壊するためにやってきたのだ。それなのに、お前は自分のラクダのことを考えているのか?」
それから、自分の側近たちのほうに向かって言いました。
「もしこの男が、ここから引き返して欲しいと言っていたなら、私はその通りにしていただろう」
アブドルモタッレブは、独特のゆったりとした調子で言いました。
「私はラクダの持ち主です。同様にカアバ神殿にも、それを守って下さる神がおいでです。」
その言葉に、アブラハの高らかな笑い声がテントの中に響き渡りました。アブラハは言いました。
「もうすぐお前は、カアバ神殿が廃墟となるのを見るであろう」
アブラハは、アブドルモタッレブのラクダを彼に返してやるよう命じ、そして、控えていた象の部隊とともにメッカを目指して出発しました。
アブラハの軍勢がメッカに着くか着かないか、というときになって、突然、空が暗くなりました。そして、どこからともなく、小さな鳥たちの大群がメッカの上空に現れ、アブラハの軍勢の上を覆いつくしたのでした。鳥たちはくちばしに、ぞれぞれ小石を咥えていました。そして、アブラハの軍勢の頭上に次々とその石を落としていったのです。兵士たちはその石つぶてに打たれて、一人、また一人と命を落としていきました。恐怖に駆られた兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。しかし、鳥たちは執拗に彼らを追いかけていきました。
あっという間に、アブラハの軍勢は、たった一人を残して全滅してしまいました。その生き残った一人の兵士は、命からがらエチオピアに戻り、王様のもとに行き、それまでの出来事を報告しました。エチオピアの王様は、驚いた様子でたずねました。
「いったい、その鳥たちはどのような姿形をしていたのか。あれほど大勢の軍隊を全滅させてしまうとは」
まさにそのとき、一羽の鳥が空に姿を現しました。兵士がその鳥を指さして言いました。「王様、あれが、その危険な鳥にございます」
兵士の言葉が終わらないうちに、鳥は小さな石つぶてを彼の頭に命中させました。兵士は、呆然とするエチオピアの王の目の前で息絶えてしまいました。
こうして神は、自らがカアバ神殿の持ち主であること、そして、自らの賢明な措置によって、それを守ることを人々に知らしめたのです。
カアバ神殿の破壊をたくらんだ、アブラハの象の軍隊がたどった運命、これは世界で起こった出来事の中でも、最も不思議な出来事の一つです。それは、イスラムの偉大な預言者ムハンマドが生まれた年の出来事でもありました。神は象の軍隊の運命を、コーラン第105章アル・フィール章象、この中で、次のように語っています。
「汝は見なかったか?汝の主が、象の軍隊に対して何をしたかを?神は彼らの策略を、卑しさと堕落の中に置かなかったか?彼らの頭上に鳥の群れを送り、石つぶてで彼らを攻撃した。それから彼らを食い荒らされたわらくずのようにした」