イラクにおけるISISの出現と消滅
テロ組織ISISに占領されていたイラク北部・モスルの解放作戦により、イラクにおけるこのテロ組織は事実上終焉し、現在、一部のISISメンバーが、分散してイラクの一部地域に残留しています。
今回の番組では、イラクでISISが出現した理由と、3年間の占領の結果、このテロ組織を撲滅する中での国際有志連合の役割についてみていくことにしましょう。
ISISははじめ、イラクのアルカイダの一派でしたが、2013年にISISに改名しました。このテロ組織は、2014年6月イラクに進出し、スンニ派の居住地域である北部のニナワ、サラーフッディーン、西部のアンバールを占領しました。このテロ組織の占領の要因についてはいくつかの理由が示されています。
(1.ISIS、アメリカのイラク政策における産物)
アメリカは2003年、イラクに侵攻し、独裁者サッダームを大統領とするバアス党政権を転覆しました。この政権の転覆により、イラクは政治、軍事、治安の空白の時代に入り、宗派間の対立が発生しました。アメリカも長期的な駐留を正当化する中で、イラクの権力の空白を必要としていました。このため、イラクではテロや爆弾事件が増加しました。アメリカの思想家、ノーム・チョムスキー氏は次のように語っています。
「アメリカとイギリスの10年に及ぶイラク占領は、イラクにISISが出現した主な要因だ。それはイラクにおける政治的空白の時代を生み出した。宗派が力を持っているイラクのような国にとって、それは危険なことだ」
また、2015年10月29日付のアトランティックのウェブサイトにおける、ジャーナリスト・デイビッド・イグナチウス氏の記事では、次のように記されています。
「確かにISISは2014年6月にモスルに入ったが、この組織は10年前、イラクでその存在を宣言している。ISISの根源は、10年間の中東におけるアメリカの失敗に起因する。イラクにおけるアメリカの行動は、治安の空白が生み出される要因となり、過激派がこの空白を埋めていた」
(2.サッダーム以後のイラクにおける強力な政府の不在)
2003年、サッダーム政権の崩壊後、民主主義の中でシーア派の政治家の多くが政権を担当しました。この状況は、少数派のスンニ派の不満により、イラクの新たな政治体制を弱体化する中での、サウジアラビアなどの地域諸国の権力の乱用を引き起こしました。同時に、イラク人としてよりもクルド人としてのアイデンティティを持つとされるイラク領内のクルド人も、イラクから独立し、クルド国家を樹立したいと考えています。つまり、このような状況は、テロ組織が出現し、不満分子をひきつける上で、もっとも好都合なのです。
(3.政治体制に忠実な力強い軍の不在)
アメリカによるイラク侵攻の、最大の結果は、強力な軍隊と治安部隊の解体でした。イラクの新たな軍隊は、ゲリラ戦などに対処した経験を持っていませんでした。また、バアス党の残党勢力も、イラクの軍や治安部隊にとどまりましたが、新たな政治体制に忠実ではありませんでした。このため、ISISは2014年6月、イラク軍が真剣な抵抗を見せない中で、モスルに進攻しました。
(4.スンニ派居住地域に対する政府の影響力の弱さ)
ISISは、イラクに駐留するため、スンニ派居住地域に目をつけていました。これに関して、2つの理由が存在します。第一に、政治的に隅に追いやられ、バアス党政権時代のような権力を持っていなかったスンニ派の不満が噴出していたこと、第二に、バグダッドの中央政府も、シーア派居住地域で持っていた影響力を、スンニ派地域に対して持っていなかったことです。カリフを自称していたISISの指導者バグダディのカリフ制の理念も、スンニ派地域にISISが影響力を及ぼす下地を整えていました。
(5.新たな首相の選出に関する政治グループの対立)
2014年4月のイラクの議会選挙で、マリキ元首相率いる「法治国家連合」が決定的な勝利を収めましたが、首相の選出においては、政治的な緊張を高めました。マリキ元首相は、法治国家連合が議会選挙で決定的な勝利を収めることができたため、首相に再選されると考えていました。しかし、マリキ元首相の反対派は、3期目のマリキ首相の行動は民主主義的なものではなくなり、法治国家連合は別の人物をマリキ元首相の代わりにして組閣すべきだとしました。この状況は、政権移譲の中で、問題を生じさせました。
(6.一部の内部的な背信行為)
また、ISISの出現の重要な要因のひとつに、イラクの内部の関係者による背信行為が挙げられます。ニナワ州の一部の軍はISISの進攻に対し、抵抗を示しませんでした。当時のニナワ州知事のような地元関係者の一部も、これに関する背信行為で非難されました。
およそ3年にわたる、ISISのイラクの北部と西部に対する占領は、人的、経済的、文化的な面での大きな損害を出しました。
(1.人的な被害)
ISISがイラク各地で出した死傷者に関する正確な統計は存在しません。しかし、ISISの犯罪の影響の中で、最悪の人道的悲劇が生じました。その中で最もひどいものは、ニナワ州のシンジャルのヤジディ教徒に降りかかりました。ISISのテロリストは2014年8月3日、シンジャルを攻撃し、住民のうち男性を殺害し、女性や少女らを捕虜にし、町の外で奴隷市場を開きました。逃げることができたヤジディ教徒の人々は山岳地帯に避難し、数週間、まともな食べ物も飲み水もない中で過ごしました。一部の人々は、飢餓やのどの渇きにより、命を落としました。
イラクにおけるISISの非人道的犯罪のひとつは、多くの市民を家族の面前で野蛮な形で処刑したことです。斬首刑や火あぶり、銃殺、体の一部をそぎ落とすなど、ISISはイラク各地で市民に対してもっとも野蛮な処刑方法を取ってきました。
また、女性の尊厳に対する侮辱行為も、ISISがイラクで行ってきた犯罪です。ISISのテロリストは多くのイラク人女性を暴行し、特にキリスト教徒やヤジディ教徒の女性を奴隷として売り渡しました。国内外における数百万人のイラク人の難民化も、ISISによるイラク占領の人道的悲劇のひとつです。
また、ISISの非人道的犯罪の最も重要なものに、民間人を人間の盾として利用したことが挙げられます。ヤン・クビジュ・イラク担当国連事務総長特別代表は、次のように語っています。
「ISISのテロリストは、意図的に民間人を標的にし、民間人を殺害するために、あらゆる手段を利用している。また、強制的に民間人を別の場所に移送し、戦略的な地域で人間の盾とした。一部の地域では、ISISは爆発物によるわなを仕掛けた建物に民間人を収容し、この建物を政府軍に対する攻撃に使い、政府軍を撤退させるため民間人を銃撃している」
(2.経済的な被害)
ISISの占領による最も重要な被害のひとつは、経済的なものです。一部の石油収入を得る中で、そして都市のインフラを破壊し、ISISとの戦争に関する出費を強いたことがこれに当たります。2017年1月、イラクのアバディ首相は次のように語っています。
「テロ組織ISISは2014年からこれまで、350億ドル近くのインフラにおける被害を及ぼした。この被害額は、イラクの経済の完全な消滅と、経済的な略奪を引き起こした」
イラク国会の予算委員会は、「2017年2月、これまでに、イラクは360億ドルをISISとの戦争に費やしてきた。これはイラクのGDPの15%にあたり、毎日、ISISとの戦争で1000万ドルが費やされている」と発表しました。
ISISのイラク占領で影響を受けた、最も重要な経済部門のひとつは、農業です。農業は、イラク国内の食料需要の重要な部分を満たしています。イラク農業省の発表によりますと、ISISの攻撃は、イラクの農業生産能力を少なくとも40%減少させたということです。2016年9月に発表された国際的な調査機関による分析報告では、次のようにあります。
「ISISはイラクの40%の小麦の生産量、40%の大麦の生産量を強奪していると見積もられており、大麦の生産量が40%減っただけで、イラクにとっては200億ドルの損害となる。これに加えて、サラーフッディーン州では小麦や大麦などの穀物を生産する70%から80%の土地が被害を受けたか、または破壊されている。ISISは農業用地を軍事的な目的に利用している。ISSIの行動により、イラクの農業部門に長期的な被害が及んでいる」
(3.文化的、社会的な被害)
ISISのイラク占領のもっとも重大な被害は、文化的、アイデンティティ的被害であることは、疑いようがありません。報告によれば、ISISの3年間のイラク占領で、ISISのメンバーの私生児や、身分証のない子供が生まれています。ISISの占領地域に住んでいた人々は、たいてい被害を受けており、おそらくこのつらい経験を忘れることはできないでしょう。今日、多くのイラクの人々は、ISISの犯罪により、あいまいな未来しか描くことができません。
また、ISISのイラク占領のアイデンティティ上の結果として、国民のアイデンティティの象徴が失われました。例えば、モスル近郊のニムルドの古代遺跡は、ISISの犯罪行為により、完全に破壊されました。ニムルドはアッシリア文明における最も重要な都市のひとつで、3000年以上の歴史を持っていました。ニムルドの遺跡のほとんどはISISによって略奪され、ブラックマーケットで売買されました。また、モスルの中央図書館の数千冊の歴史文書が燃やされました。中東問題の専門家は、次のように語っています。
「モスルはアッシリア帝国の王の最も重要な都市のひとつだった。古代遺跡が破壊されたとき、文化的なアイデンティティの一つが消滅した。モスルは10世紀のハムダーン朝の最も重要な中心地であった。この当時の手稿も失われ、またひとつこの町の文化的なアイデンティティが失われた。ISISは現在もこの行動を続けており、ひとつの町のアイデンティティを破壊しているところだ」
ISISに対する国際的な有志連合の話をするため、はじめにイラクのISISに対するアメリカの戦略について触れておきましょう。ISISはアメリカからすればイランやイラク政府、シリアに対する圧力行使の道具です。この見方においては、ISISは滅亡するべきではないばかりか、アラブ諸国を通じてなどの様々な方法で強化されるべきなのです。しかし、同時に、アメリカや中東のアメリカ同盟国の手で、ISISをコントロール下に置かなければなりません。ISISはアメリカと地域の同盟国のゴーサインにより、イラクに侵攻し、イラクの一部を占領した、という見方もあります。
アメリカのISISに対する見方が、道具から、対策を取る存在に変わった要因は、ISISがアメリカやその同盟国のコントロールから外れたことにあります。この中で、ISISのテロリストは、カリフ制の樹立を目的として、アメリカのコントロールからはずれ、アメリカの同盟国にとっての脅威となりました。このため、アメリカ政府はISISに対する見方を買え、2014年9月、対ISIS有志連合を結成し、これにおよそ60カ国が参加しました。
ここで、なぜアメリカが対ISIS有志連合を結成していながら、イラクのISISはそれから2年10ヵ月後に崩壊したか、基本的に、この連合はISISとの戦いにおいて、イラク軍にとって何の支援を行ったか、という疑問が生じます。
多くのアナリストは、アメリカ主導の有志連合は、ISISとの戦いに失敗したと考えています。イラクにおけるISISの崩壊は、イラクの合同軍による成果です。この有志連合が失敗したのには、いくつかの理由が提示されています。
(1.有志連合の目的がISISの消滅ではなく、弱体化にあったこと)
有志連合はISISがアメリカの同盟国にとっての脅威に変わったとき、ISISの消滅を目指していたのではなく、ISISが弱体化することを望んでいました。アメリカやその同盟国にとって、ISISは消滅するのではなく、弱体化するほうが好ましかったのです。シリア北部・アレッポの東部がイランとロシアの支援により解放された後、有志連合はイラクとシリアにおけるテロ組織は、衰退しつつあり、イラクでも、イラク軍がISISを敗北させる力があるという結論に達しました。
実際、アメリカは、ISISがアメリカ政府にとっての有用性を失った一方で、イラク軍がアメリカの支援なしにISISに勝つことができるという結論に達しました。つまりこの段階で、アメリカ主導の融資連合軍は、イラク軍がISISと戦う上で、後方支援の役割を果たそうとしました。しかし、イラクのISISを崩壊させる上で、目立った役割を果たしませんでした。それは、ISISの崩壊には空軍の支援よりも地上軍やゲリラ戦を行う部隊が必要とされており、有志連合はこの種の兵力をもっていませんでした。
(2.有志連合の本質)
有志連合が失敗したもうひとつの理由は、この連合の本質に関係しています。実際、この連合を結成した国々は、ISISを創設し、支援し、拡大した国でした。トランプ大統領なども、クリントン氏に対する大統領選挙の選挙戦の中で、ISISはアメリカが作り出していたことを認めていました。一部のヨーロッパ諸国や、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコなどの国も、イラク、とりわけシリアにおいてISISの消滅を求めていなかったのにもかかわらず、有志連合に参加しました。イランやロシアなどの主要国はこの有志連合に参加しませんでしたが、その一方で、イラン、ロシア、シリアは、テロとの戦いにおける先駆者的な国であり、またこれに関する真剣な意志を有していました。
結果として、3年後、ISISはイラクで崩壊することになりましたが、それはアメリカ主導の対ISIS有志連合によるものではなく、イラクの合同軍によるものであり、この国際的な有志連合が果たした最も重要な役割とは、イラク合同軍のISISとの戦いを空からわずかに支援したことのみでした。この空からの支援でも、数回にわたり、民間人が攻撃対象となり、これによって数百人が死傷しました。
最終的に、確かに、ISISのメンバーは現在もわずかにイラクに潜伏していますが、モスルの解放は、イラクにおけるISISの終焉だった、なぜなら、ISISの主要な目的はイラクとシリアでカリフ制を樹立することにあったからだ、というべきでしょう。