招かれざる客2
この時間も前回に引き続き、1967年に公開されたハリウッド映画「招かれざる客」について見ていきましょう。
前回のこの時間にもお話したように、白人女性のジョーイ・ドレイトンは、ハワイで、黒人青年のジョンと知り合い、互いに愛し合う間柄になりました。2人はジョーイの両親であるマット・ドレイトンとクリスティーナに挨拶をするためにサンフランシスコに戻ります。しかし、ジョーイの両親、特に父親のマットは、人種の平等を訴えながらも、娘の婚約者が黒人であることに驚き、動揺します。
ジョンは、ジョーイの両親のもとに一人で行き、自分とジョーイの結婚に対する最終的な意見を聞かせてほしいと言いました。この時間は、この映画の別の2つの場面についてお話しましょう。
51分から始まるシーンでは、マットの友人のライアン神父がやって来て、ジョンとジョーイの結婚について、マットと話をしています。クリスティーナも2人に加わります。
ライアン神父は、「ジョンとジョーイは賢い二人であり、今後何が起こっても、一緒にいたいと言うのであれば、それは二人が強く愛し合っている証拠である」と話し、マットとクリスティーナに、愛し合う二人はこの世で最も幸せになる権利があると言います。
これに対しマットは、ジョンとジョーイが決して幸せにはなれないと分かっていたらよかったのにと言います。
するとライアン神父は、皮肉な笑いを浮かべながら、マットは少し難しく考えすぎていると言い、新聞社を経営し、差別問題とずっと闘ってきたリベラルな思想の持ち主であるはずのマットが、ジョンが黒人であることに戸惑いを見せるのはおかしいと指摘します。この指摘に対し、マットは何も言い返すことができず、それ以上何も言わないでくれと頼みます。
マットは、新聞社で、人種差別に反対するリベラルな思想を訴えていますが、自分の娘が黒人と結婚するのを受け入れることができません。このことは、マットの行動と言葉の矛盾を示しています。
マットが訴えている差別の撤廃は、表面的な社会的、思想的な行動であり、彼の家庭生活における本当の生き方とは異なるものです。娘と黒人の結婚を受け入れることへの彼の恐怖や不安は、周囲の環境や社会の状況に端を発しています。
実際、このシーンは、1960年代のアメリカの社会が、黒人と白人の結婚という問題を受け入れる用意ができていないことを示しています。それは、社会で人種差別の撤廃を訴える人々でさえも、個人の生活においては、差別を完全に排除できていないことを物語っています。
68分から始まるシーンでは、ジョンとジョーイが、ジョンの両親を連れて、車で空港から家に向かっています。車の中では誰も口を利かず、皆が互いをちらちらと見合っています。
ジョンの母親は、ジョーイに対し、彼女の両親は二人の結婚についてどのような反応を示したのかと尋ねました。ジョンの父親も、同じことを聞きたかったと言います。ジョーイは、自分の両親は今まで見たこともなかったほど動揺していると言いました。するとジョンの父親は、私たちが驚いても責めないでほしいと言います。
この瞬間、ジョーイの困ったような顔とジョンの落ち着きのない表情がアップで映し出されます。ジョンは、父親に向かって、二人の結婚は自分でも信じられないほどあっという間に決まったことであり、彼らにとっても、またジョーイの両親にとっても難しいことであることは理解できると言います。
ジョンとジョーイは、ジョンの両親と共にドレイトン家を訪れます。多くの言葉が交わされた末、とうとう、この結婚に強く反対していたジョンの父とジョーイの父も、ジョンとジョーイの結婚を承諾します。
ドレイトン家をジョンの両親が訪れるシーンで、ジョンとジョーイの2人が、ジョンの両親と対面するために選ばれた場所は、車の中となっています。
カメラの動きと音声によって、車が移動中であることが示されます。ここで、車の動きは、白人と黒人の和解への流れを示しながらも、その垣根が完全に取り払われたとは、はっきり言えない状況を示しています。
映画「招かれざる客」では、1949年に公開されたピンキーに比べて、文明的な要素は、白人だけに限られたものではありません。黒人に対しても、文明的な特徴が与えられています。
この映画では、全体的に、白人至上主義への疲弊が描かれています。白人至上主義は、1960年代の状況にはそぐわないものであり、この国の社会的、文化的な変化に合っていないことを示しています。この映画は、人種差別への非難を扱った映画だと言えるでしょう。
バースオブ・ネイションやアンクルトムの小屋、ピンキーなど、これまで紹介してきた映画で見られた、白人を優位に見せる特徴は、「招かれざる客」の中ではそれほど見られません。黒人と白人がなんら変わりのない同じ人間として描かれています。
ピンキーでは、黒人の最高レベルの職業は看護師でした。一方、招かれざる客では、黒人の有名な医師が登場します。これは、黒人の社会的、経済的な地位の向上を物語っていますが、同時に白人と黒人は、なおも社会や経済の点で平等ではありませんでした。なぜなら、ジョンは医者ですが、ドレイトン家の召使は黒人女性です。
また、ガーディアンという新聞社の経営者も、白人であるマット・ドレイトンです。マットは、新聞の中で人種差別への反対を訴えていますが、自分の家族の問題になると、そのような主張に沿った行動を取ることができていません。
ピンキーでは、ピンキーが白人であるふりをし、自分を偽って生きようとしていました。招かれざる客では、主人公の黒人は、自分が黒人であることに不満を抱いたりはしていません。しかし彼は、結婚という、自分の人生を巡る決断のために、一つ前の世代の白人と黒人の許可を得る必要があります。
すでにお話ししたシーンで見たように、白人と黒人の関係には根本的な変化が起きており、黒人と白人のアイデンティティに関する新たな分類が見られます。この映画は、社会的な変化により、白人と黒人の新たな関係のモデルを提示しています。
これに基づき、二人の愛情や人格、社会的な地位といった問題が重要な要素とされ、肌の色や人種、年齢は重視されていません。この映画では、黒人が自分で自分の将来を切り開こうと闘いますが、最終的な決定権は白人にあります。もしジョーイの両親が結婚を承諾しなかったら、ジョン自身も彼の両親も、この結婚をあきらめていたでしょう。
どうやらこの映画の製作者は、1960年代のアメリカ社会における黒人と白人の結婚を巡る状況を理解し、映画という形によって、そのような差別が、いかに意味のないことであるかを示そうとしているようです。しかし、いずれにせよ、この問題は、1960年代のアメリカだけでなく、人権擁護を声高に訴える現在のアメリカにおいても根強く残っています。