コーラン、第13章ラアド章雷電(2)
今回もコーラン第13章ラアド章雷電を見てまいりましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
まずは第12節から13節をお聞きください。
「彼こそ、恐怖と希望の源である稲妻をあなた方に示し、重い雲を起こす。そして雷が神を賞賛し、天使たちが神を畏怖して賛美する。神は雷鳴を送り、望む者を襲わせる。それでも彼らは神について論争する、神の懲罰は痛ましいものである」
この節が、雷と、雷が神を賞賛していることに触れているため、この章はラアド・雷電と名づけられています。コーランはここで、神の唯一性、神の偉大さと創造の神秘のしるしについて述べ、いくつかの自然現象を挙げ、神を知ろうとする人々の心に信仰の光を輝かせます。これについて、雲の切れ間から見える光に触れ、「その雷は人々の目をくらませ、そのとどろきは、時にあなたたちに恐怖を抱かせるだろう。だが、多くの場合、雷と共に激しい雨が降ることから、人々は希望を抱き、恐怖と希望の狭間に置かれながら、この緊張のときを過ごす」と語っています。
今日、雷は、人間や自然に多くの恩恵をもたらすことが科学的に証明されています。雷が鳴ったあと、激しい雨が降ります。そのため、雷は、恵みの雨を降らせ、大地を潤す上で、重要な役割を果たしています。また、雨のしずくは、雷と熱によって酸素のような状態になり、地上の物質と混ざり合った際、植物にとって有益な肥料を作り出します。こうして、植物を強化するのです。
次の節は、光と共に訪れるとどろき、雷鳴について触れ、次のように語っています。「雷は神を賞賛する」
この自然の世界の大きなとどろきは、光と共に起こることから、実際、神を賞賛しているのであり、言い換えれば、雷は、創造世界の秩序や創造主の偉大さを物語っています。雷の響き、あるいは物質世界のあらゆる部分が神を賞賛しているだけでなく、全ての天使たちもまた、神への畏怖により、神を賞賛しています。
ラアド章の第17節で、神は興味深い具体的な例を上げ、真理と偽り、正義と悪を比較しています。
「神が空から雨を降らせ、それから相応の量の河川を流した。それから激しい流れで泡を運ばせた。装飾品や道具が手に入るよう、火によって溶けるものからも、[激しい流れでできた泡と]同じような泡ができあがる。神はこのように、真理と偽りをたとえる。泡はなくなり、人々にとって有益なものは地上に残る。神はこのようなたとえを[人々のために]示している」
透明ですんだ水が天から降り、峡谷やくぼみ、小川は皆、それぞれの能力に応じて、天から降った水を受け入れます。小川は互いに結びついて河川となります。それらも互いに結びつき、山すそから大きな流れを生じさせます。その大きな流れは、途中にあるすべてのものを巻き込んでいきます。そのとき、渦を巻く流れの間に泡ができます。コーランによれば、大きな流れはその表面に数多くの泡を運びます。そうした泡が生まれるのは、雨が降ったときだけではありません。金属もまた、生活のための道具や装飾品を作るために溶かされたとき、水の泡と同じように泡ができます。この節は、「神は真理と偽り、正義と悪を区別するために、このようなたとえをあげる」とし、それに続いて、次のように語っています。「しかし泡はすぐに消えるが、人々にとって有益なものは地上に残る」
この例えの中で、神は真理を透明な水に、偽りを泡になぞらえています。激しく流れる水は、荒野や平原に到達し、水の勢いが収まったとき、水に混ざった様々な物質は底へと沈み、泡は消え去り、透明な水が、その姿を現します。コーランはこのたとえによって、生の源である透明な水のように、真理は常に役に立つものですが、反対に、偽りは、泡のように何の役にも立たないものだということを教えようとしています。水は地上にとどまらず、奥深くまで浸透したとしても、少し経ったのちに、泉や地下水路となって現われ、乾きを潤し、果実を実らせ、花を輝かせます。
明らかに、水の上にできる泡が、のどの渇きを癒したり、木々を潤したりはしません。また、金属を溶かした釜の中でできる泡も、何の役にも立たず、捨てられてしまいます。偽りは水の泡のように、表面は派手であっても、中身がありません。一方で真理は、本物でしっかりとした根があります。偽りは本質的に欺瞞的なもので、人々に好まれるようなスローガンの助けを得、常にその形を変え、真理のふりをします。しかし、水の泡のように、そこに根はありません。もし真理が動き始めたら、偽りは水の泡のように端に追いやられます。そのこと自体、偽りが脇に追いやられるようにするために、真理を沸き立たせる必要があることの証明になっています。
ラアド章の第20節から22節には、知識を持つ人たち、真理を支持する人たちの特徴が述べられています。例えば、神との約束を守り、それを決して破らない、神から守るように指示された結びつきを守る、神を畏れ、最後の審判での清算を恐れる、神の満足を得るために耐え忍ぶ、礼拝を行い、神から日々の糧として与えられたものを、明らかに、また隠れて施す、また良い行いによって、悪を追い払う、といった特徴です。
ラアド章の第28節には、神へと立ち返った人々について、興味深い記述が見られます。
「彼らは信仰を寄せ、神を想い起こすことで、心の安らぎを得た人たちである。まことに人々の心は、神を想い起こすことによってのみ、安らぎを得る」
不安や動揺は、常に、人間にとって大きな問題であり、人間は、個人や社会の生活において、その影響を感じます。それに対し、心の安らぎ、安心感は、人間が失ってしまった重要なもののひとつです。概して、心の安らぎや不安は、個人や社会の健康や病気、幸福や不幸を決める上で、重要な役割を果たします。コーランは、内容の濃い簡潔な文章により、人間が安らぎに達するための最も確かで近い道を示し、次のように語っています。「覚えておくがよい。神を想い起こすことは、人々の心に安らぎを与える。常に自らの僕たちの能力を請け負う全能の慈悲深い神を信じることで、人々は不安を減らし、確かな安らぎに到達することができる」
ラアド章は、不信心者の主張を挙げ、神が預言者をなぐさめるところで終わります。第43節には次のようにあります。
「不信心者たちは言う。『汝は神の使徒ではない』と。言え、『神と、啓典の知識を持つ者が、私とあなたたちの間で証言するだけで十分である』」
不信心者たちは、毎日、何らかの口実を設け、いつでも奇跡を求め、そして最後には常に、「あなたは預言者ではない」と言います。そのような人たちに対しては、2人の人物が、私とあなたたちの間の証人だと言えば十分でしょう。一人は、神であり、もう一人は、コーランの知識を持つ人物です。私が神の使徒であることは、神も、そしてまた、私の天啓であるコーランについて十分な知識を持っている人々も知っています。彼らは、これが人間によって作られたものではないこと、偉大なる神から下された以外の可能性はありえないことを、よく知っています。これは、コーランの奇跡を様々な角度から改めて強調したものなのです。