コーラン、第14章イブラヒーム章アブラハム(4)
今回も前回に引き続き、コーラン第14章イブラヒーム章アブラハムを見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
イブラヒーム章第35節には次のようにあります。
「イブラヒームがこう言った時[を思い出すがよい]。『主よ、この[メッカの]町を安全にし、私と、私の子孫たちを、偶像崇拝から遠ざけてください』」
神の偉大な預言者イブラヒームは、人生を偶像崇拝との闘争に捧げました。彼は、準備のできた人々の心を、唯一神信仰の光で照らし、数人を迷いと無知から解放したのです。
イブラヒームは、真理を明らかにするために、困難な道を歩みましたが、そのうちのひとつは、最初の妻のハージャルの対する嫉妬でした。イブラヒームは召使いを自分の妻にし、彼女との間にイスマイールという名の息子を設けていました。それにより、イブラヒームは、ハージャルとまだ生まれたばかりのイスマイールを、神の命により、パレスチナから、灼熱の険しい山々の間にあるメッカの乾いた荒野に連れ出し、彼らをそこに置き去りにして戻らなければなりませんでした。それから間もなく、この幼い子供と母親は、灼熱の荒野でのどの渇きに見舞われました。ハージャルは子供の命を助けようと努力しました。そのとき、その大地を大きな礼拝の場所にしようとしていた神は、その子供の足元にザムザムの泉を沸き立たせました。その後、次第に、荒野の近くを通り過ぎていく人々が、そのことを知るようになり、そこに滞在場所が置かれるようになりました。様々な部族がやって来たため、メッカは次第に繁栄を遂げました。
イブラヒームは、唯一神信仰の家、つまりカアバ神殿の基盤を築き、それを神への崇拝の中心地にし、敬虔な人々に、この家での礼拝を呼びかける役目を命じられました。彼は、イスマイールの助けを借りて、カアバ神殿の基礎を築き、それが終わると、自ら礼拝を捧げました。イブラヒーム章の節には、他の人々にとっての教訓になるように、この神の偉大な預言者の要求や祈りの一部が述べられています。
これらの節で、イブラヒームは、祈りを捧げる際の儀礼やマナーを教え、神に対して7つのことを求めています。一つ目は、唯一神信仰の大きな中心地であるメッカの町の安全です。なぜなら、安全という恩恵は、その場所で生活する上での第一の条件であるからです。安全は、発展や繁栄になくてはならないものです。イブラヒームはまた、祈りの中で、自分と子供たちを、偶像崇拝から遠ざけるよう、神に求めていますが、これは、宗教的な計画や信条の基盤を含むものとなっています。イブラヒームの三つ目の願いは人々が、唯一の神を信仰する人々の心が、子供たちやその信者たちに向くようにということです。四つ目は、様々な恩恵の創造主である神への注目と感謝のための準備として、様々な利益を授けてほしいということです。五つ目は、神と人間の最大の結びつきである、礼拝を行えるようにすることです。六つ目は、彼の祈りを受け入れてほしいというものです。神は、清らかな心と飾りのナイ精神によって行われる祈りのみを受け入れてくださいます。そのため、この願いには、穢れのない純粋な心を持てますように、という想いもこめられています。そして七つ目の願いは、もし過ちを犯したとしても、慈悲深い神から、赦しと恩恵を受けられるように、というものです。そして、彼の両親や敬虔な人々にも、最後の審判の日、その恩恵を授けてほしいと願いました。
預言者イブラヒームの願いが終わり、その後の節は、イスラムの預言者ムハンマドと、全ての敬虔な人々に対して、もし圧制者が豊かな生活を送り、彼らに災難が降りかからなくても、それは神が、彼らの行いに気づいていないことを意味するのではなく、唯一の創造主は、その英知に基づいて、全ての人間に対して猶予を与え、能力があるのであれば、罪を悔い改めさせ、そうでなければ、最後の審判で、その行いの結果を見ることになるようにしています。
イブラヒーム章第42節には次のようにあります。
「圧制者たちが行うことを神は知らない、などと考えてはならない。神は彼らへの懲罰を、あるときまで遅らせる。[その日、]彼らの目は[恐怖で]見開かれたままとなるだろう」
とはいえ、最後の審判の日に、誰かの謝罪が受け入れられることはありません。
イブラヒーム章第44節の一部にはこのようにあります。
「圧制者たちは言うであろう。『主よ、少しの間、私たちに猶予を与えてください。そうすれば、あなたの導きに答え、あなたの預言者に従います』[彼らにはこのような答えが下るだろう。]“私たちには衰亡や滅亡はないだろう”と、あなた方は以前に誓って言っていたではないか」
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