コーラン第32章サジダ章叩頭章
今回からは、コーラン第32章サジダ章叩頭章をお送りします。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
サジダ章は、サジダ・叩頭を行うことが必要となる4つの章のうちの一つです。この4つの章とは、アン・ナジュム=星、フッスィラト=解明、サジダ=叩頭、そしてアル・アラグ章凝結です。これらの章のサジダの節を読んだり聞いたりしたら、サジダをすることが義務となります。サジダとは、謙虚さを意味する言葉で、宗教では、神を讃えるために地面に額をつけることを指します。サジダとは、偉大なる神のみを崇拝するためのものであり、神以外のものにサジダすることは、不信心と見なされ、禁じられています。
コーランの表現を借りれば、創造世界の全ての存在物は、唯一の神を称賛し、崇拝します。人間もまた、他の存在物と同じように、本能的に神を崇拝するものです。崇高な神への崇拝と、その清らかで類のない本質への注目が、人間の心を超え、実践の形を取るようにするためには、神に対する完全な服従と謙虚さをサジダの形で示し、それによって神を称賛することが求められています。
サジダ章は、コーランの32番目の章であり、メッカで下され、全部で30節です。この章の第15節は、読んだり、聞いたりすれば、サジダが必要となります。そのため、この章はサジダ・叩頭と呼ばれています。この章では、何よりもまず、コーランの真正について語っています。その後、天と地における神のしるし、人間が土や水から創造されたこと、神の魂が人間に吹き込まれたことについて議論されています。サジダ章は、数多くの忠告や吉報により、特別な目的を追求しており、それは、神と復活への信仰の基盤を強化し、人間を敬虔さへと向かわせ、不信心を防ぐためのものです。
サジダ章の第1節と2節を見てみましょう。
「アレフ、ラーム、ミーム、この疑いなど存在しない書物は、世界の主である神から下されたものである」
ここで、神はコーランに対する多神教徒や偽善者の疑いに対し、コーランは、神から下された真理の言葉であり、実際、その知識には何の疑いもないとしています。コーランは、創造世界の真理を凝縮した驚くべき集合体です。なぜなら、世界の神から創造されたからです。世界の全ての真理は、その神という存在を源としています。実際、神は、人類を導くための欠点のない確かな書物を下し、人間が迷いや危険から救われるようにしました。
サジダ章の第4節では、イスラムの信条の重要な基盤の一つ、つまり唯一神の信仰と多神教信仰の否定、天と地の創造について述べられています。
「神は、天と地、そしてその間にあるものを6日のうちに創造し、それからその玉座についた方である。あなた方には、彼の他に、いかなる助けも調停人もいない。それでもあなた方は訓戒を受けないのか?」
世界が6日のうちに創造されたことは、コーランの別の箇所にも出てきます。日を意味するヤウムという言葉は多くの箇所で出てきますが、そのうちのほとんどは、普通の夜と昼を意味するものではありません。ヤウムという言葉は、時期、期間という意味でも使われます。そのため、この節の意味は、「神は天と地の全体を6つの連続した期間のうちに創造した」という意味になります。この期間は、もしかしたら、数百万年、あるいは数億年かかったかもしれません。驚くべきなのは、現代の科学で、創造に関するコーランの見解と矛盾するものはないという点です。
創造の問題が提起された後、創造世界に対する神の支配について述べられています。「その後、神は玉座に座り、世界の統率をその手に握り、創造世界全体を支配した」 コーランは、神は玉座にいるとすることで、神は世界の創造主であり、またそれを管理するのも全能な神であるという内容を伝えようとしています。そのような神は、全ての人、全てのものを支配し、調停する存在です。
サジダ章の第7節から9節では、人間の創造とその最初の物質、人間が成長の過程で歩む段階について触れられています。これらの節で、神はあらゆるものの創造が、確かな秩序に基づいていることへの注目を促し、いくつかの人間への大きな恩恵について語っています。まず、神は人間の創造を泥から始めたとしています。それは、そのような価値のない物質から、人間のような優れたものを作り出した、神の偉大さと力を示しています。さらに、人間に、どこからやって来て、どこに向かうのかを教えています。
サジダ章の第8節は、人間の創造とその後のアーダムの子孫の誕生方法に触れ、次のように語っています。
「それから神は、人間の後継者をわずかな卑しい水の精から作った」
この節が意味するのは人間の精液のことで、実際それは、人間の存在全体のエキスであり、子孫の誕生と生の存続の源となっています。
サジダ章の第9節は、胎内での人間の複雑な成長過程と、人間が泥から創造される際に経た過程について述べています。
「それから人間の姿を均整にし、そこに自分の魂を吹き込んだ。あなた方のために耳と目、心を据えた」
母親の胎内での人類の成長過程は、受精した後、胎児は最初は液体のような生命で、栄養を取り、成長するだけであり、動物の生のしるしである動きや感情、そして人間の生のしるしである理解力はまったく備わっていません。しかし、胎児が胎内で成長すると、動き始め、少しずつ人間としての別の力を身につけていきます。それこそ、コーランが魂の膨張と表現している段階です。その貴重な魂とは、神が人間に吹き込んだものです。それは、人間の地位の偉大さを示しています。神の魂が人間に吹き込まれたため、人間は、自分の精神を創造主の美しい性質で飾ることができるのです。
この節は続けて、感情や思考のための手段である目と耳、心に触れ、これらの手段は、神から人間に与えられたものだとしています。その後、被創造物は、創造主に対して感謝すべきだとし、「しかし、感謝するのはわずかな数の人々である」としています。
サジダ章の節は、罪を犯した人と敬虔な人間の2つのグループの状況について説明し、最後の審判での、罪を犯した人の悲惨な状況をこのように描いています。
「罪を犯した人々が、主の御前で頭を垂れるのを見るだろう。『主よ、私たちは見て聞きました。だから私たちを[現世に]帰してください。そうすれば善を行います』と。まことに我々は確信に至った」
彼らは、現世の生活に戻りたいと願いますが、それが叶うことはありません。なぜなら原則的に、現世に戻る道は存在しないからです。そのときにはすでに遅く、非常に悪い運命が彼らを待ち受けています。コーランは、罪を犯した人々の姿を描き出すと共に、敬虔な人間のしるしを述べています。神は、真の敬虔な人間の特徴を述べ、真理を信じようとする人の熱情を高めようとしています。
ここで、敬虔な人間のいくつかの特徴が述べられています。サジダ章の第15節を見てみましょう。
「我々の節を信じるのは、いつでもそれらの節が彼らに読み上げられるたびにサジダし、神を称賛する者たちだけである。彼らは高慢ではない」
すでにお話ししたように、サジダ章の第15節は、読んだり聞いたりした場合、その人にとってサジダ・叩頭することが義務となる節の一つです。この節から先は、敬虔な人間の一部の特徴が述べられています。
サジダ章の第16節と17節を見てみましょう。
「[彼らは夜半に]脇を床から遠ざけ、畏怖と希望を抱いて神を呼ぶ。我々が彼らに日々の糧として与えたものの中から施しをする。その中に、目を明るくする重要な報奨が隠されているとは誰も知らない。これは、彼らが行ったことの報奨である」
朝早く起きること、夜の礼拝に勤しむことは、神から最高の報奨があり、神以外にだれも、その報奨を知る者はありません。(了)