コーラン第36章ヤースィーン章(1)
今回はコーラン第36章ヤースィーン章についてお話ししましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
ヤースィーン章はメッカで、イスラムの預言者ムハンマドに下され、アラビア語のアルファベットのヤー、スィーンで始まります。
ヤースィーン章は、多くの伝承によれば、コーランで最も重要な章の一つで、コーランの心臓とも呼ばれています。イスラムの預言者ムハンマドは、「何にでも心臓があり、コーランの心臓はヤースィーンである」と語っています。この章は、神が預言者ムハンマドの使命を証言することから始まり、続けて3人の預言者について述べられています。また、唯一神を示す、創造世界における神のしるしに触れた節や、復活、最後の審判での質問と回答、天国と地獄の特徴といった問題について述べた節があります。
ヤースィーン章の第1節から6節を見てみましょう。
「ヤー・スィーン。英知あるコーランに誓って。まことに汝は神の使徒であり、正しい道の上にいる。これは、寛容で偉大な神から下されたコーランである。祖先に警告が与えられなかったため、それを知らない人々に、汝が警告するためのものである」
これらの節では、アラビア語のアルファベットに続き、コーランに誓いが立てられ、コーランは英知あるものだとされています。実際、英知の扉を人々の前に開き、正しい道に導くものとしてコーランが紹介されています。とはいえ神は、誓いを立てる必要はありません。しかし、コーランへの誓いは、常に2つの重要な効果を有しています。一つ目は、内容が強調されること、そしてもう一つは、誓いの対象になっているものの偉大さが示されることです。
次の節は、何のために誓いが立てられたかに触れ、「英知あるコーランに誓って、汝は神の使徒であり、その使命は真理を伴うもので、汝は正しい道の上にある」と述べています。
この節は、預言者は正しい道の中にあるとしています。それは、預言者の導きの内容は、彼の道が正しい道であること、彼の人生の歩みもまた、彼の道が正しいものであることを示しています。
神の預言者たちの導きが正しいことを知るためには、2つの事柄に注目すべきです。一つ目は、彼らの導きの内容を見て、それが理性や本能に合致しているかどうかを確認することです。二つ目は、彼らの人生や状況を見て、彼らが誠実で正直かつ責任感のある人間であるかを確かめることです。その答えが肯定的なものであった場合、彼らが神の使徒であることが証明されます。
ヤースィーン章は続けて、コーランが下された主な目的について次のように語っています。
「我々がコーランを汝に下したのは、祖先が忠告を受けなかったために怠惰に陥った民に汝に忠告を与えさせるためである」 いずれにせよ、コーランが下された目的は、無知な人々の意識を呼び覚ますことにありました。
実際、人間が導かれ、改革されるのは、唯一神信仰という本能的な傾向を、醜い行いによって踏みにじらなかったときです。コーランはこの民を、集落の人々と呼んでいます。コーラン解釈者によれば、これらの節は、現在、トルコの一部、シャーマートと呼ばれた都市のひとつであるアンタキーヤに住む人々を指しています。この町の人々は偶像崇拝者で、預言者たちは、この町の人々を唯一神信仰へといざない、多神教崇拝と戦うために遣わされました。しかし、人々は神の預言者を否定し、反対しました。コーランはヤースィーン章の第13節と14節で次のように語っています。
「彼らのために集落の人々を例示するがよい。神の使徒が彼らのもとにやって来たとき。我々は2人の使徒を彼らのもとへと遣わしたが、彼らは2人とも否定したため、3人目によって[2人を]確認させた。そのとき彼らは言った。『私たちはあなた方のもとに遣わされた[神の]使徒です』」
しかし、この迷いに陥った民は、使徒たちの導きに対してこのように語りました。「あなたたちは私たちと同じ人間であり、慈悲深い神は何も下していない。あなたたちは単なる嘘つきです。もし神のもとから使徒がやって来るとすれば、それは私たちと同じ人間ではなく、神に近い天使であるべきです」 こうして彼らは、それを神の使徒と命令を否定する理由としたのでした。
いずれにせよ、神の預言者たちは、迷った民の頑なな反対に遭ってもなお、失望したり、弱気になったり、意志が揺らいだりすることはありませんでした。そして反対者に対し、このように語りました。「私たちは間違いなく、あなたたちのために神から遣わされた者です。私たちの責務は、はっきりと使命を伝えること以外にありません」 彼らは、自分たちの真性を証明するため、根拠や奇跡を示しました。しかし、心を閉ざした反対者たちは、そのような明白な論理や奇跡に屈せず、暴力を拡大して言いました。「私たちはあなたたちを悪い兆しと見ます。あなたたちの存在は悪であり、私たちの町や土地の不幸の源となります」
彼らはそれだけでは満足せず、明らかな脅迫により、自分たちの悪しき目的を明らかにし、「もしそのような言葉をいい続ければ、あなたたちを石打ちの刑にし、痛ましい懲罰を与えるだろう」と言いました。
偽りの支持者、圧制と堕落の支持者は、しかるべき論理を持たないため、常に、暴力、圧力、脅迫といった手段に訴えます。しかし彼らは、神の道を歩む人々が、このような脅迫に屈することはなく、それどころかさらに辛抱強くなるということに気づいていません。神の預言者たちは、その明らかな論理によって、反対者の言葉に答え、言いました。「あなたたちの不幸は、あなたたち自身の責任である。正しく考えれば、その事実に気づくだろう。不幸はあなたたちの社会環境を包み込み、神の恩恵はあなたたちのもとからなくなってしまった。その原因は自分たちの中、自分たちの醜い行いや逸脱した考え方の中に探るべきだ。実際、欲望に従い、自分の生活空間を暗くし、神の恩恵を断ち切ったのは、あなたたち自身である」
こうした中、信仰を持った男が、町のはずれから不信心者のもとに駆け寄ってきて言いました。「私の民よ、この神の使徒に従いなさい。彼はその導きの報奨をあなたたちに求めず、自身も導かれている人々である」 コーラン解釈者の多くは、この人物の名を、ハビーブナッジャールとしています。彼は以前、神の使徒たちに出会ったとき、彼らの導きが正しいものであること、その教えが奥深いものであることを知り、敬虔な信者と見なされていました。彼は、町の真ん中で、人々がこの神の預言者たちに対して立ち上がったと聞き、急いでそこに駆けつけ、可能な限り、真理を守ろうとしました。彼は普通の人間であり、表面的な華やかさも権力も持っていませんでしたが、信仰の光りによって心が照らされ、確信を得ていました。そのため、唯一神を信仰した人々の闘争の結果を考えることもなく、この騒ぎに駆けつけ、敬虔な人間はたった一人であっても責任があり、黙っていてはならないということを全ての人に知らせようとしたのです。
それから彼は、この預言者たちの最も重要なメッセージである唯一神信仰について語ります。「自分を創造した存在を崇拝しない理由があるだろうか?神以外のものを崇拝すれば、もし神が私を災難に巻き込もうとしたとき、それら神以外のものの調停は、私にとって何の役にも立たず、私を懲罰から解き放つことはない。その場合、私は明らかな迷いに陥るだろう」 この敬虔な人物は、確かで論理的な理由を述べた後、集団に対し、「私はあなた方の主に信仰を寄せ、この預言者の導きを受け入れた。だからあなた方も私の言葉を聞くように」と言いました。しかし、頑なな反対者たちは、この清らかで敬虔な人物に対して立ちあがり、彼を殺害してしまいました。
コーランによれば、この人物の清らかな魂は、神の恩恵に溢れた天国へとのぼりました。
ヤースィーン章の第26節と27節を見てみましょう。
「彼は『天国に入りなさい』と言われた。彼は言った。『私が主の赦しを得て、尊重される者の中に入れられたことを私の民が知っていたらよかったのに』」
アンターキーヤの町の人々は、衝撃的な天の一声が聞こえただけで、突然、静まり返り、動かなくなりました。この節は、人々に、この出来事から学ぶよう呼びかけ、続けて、歴史の中で、世界の多くの人々が、神の預言者に誹謗中傷を浴びせ、その結果、迷いに陥ったことに触れています。ヤースィーン章の第30節にはこのようにあります。
「哀れな僕たちは、使徒が彼らのもとに現われるたびに、彼らに誹謗中傷を浴びせた」
(了)