6月 03, 2018 20:55 Asia/Tokyo
  • コーラン第49章アル・ホジョラート章私室
    コーラン第49章アル・ホジョラート章私室

今回は、コーラン第49章アル・ホジョラート章私室についてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ホジョラート章は全部で18節あり、メディナで下されました。この章では、預言者への接し方、社会の人々の互いへの接し方に関する道徳的な点が述べられており、道徳と礼儀の章と呼ぶことができます。

 

アル・ホジョラート章で述べられているのは、預言者との接し方と預言者の前での礼儀の遵守、社会の親近感を促す社会的な道徳の原則、社会の分裂や誤解を招くそれらの原則の無視、イスラム教徒の間の仲介とさまざまな問題の改革、相互尊重と嘲笑や誹謗中傷の回避、神の御前における人間の価値の基準としての敬虔さ、行動を伴った信仰の強調の他、イスラムを受け入れたからといって恩を着せないこと、人間の行いと創造世界のすべての神秘に対する神の知識といった問題です。

 

「信仰を寄せた人々よ、[いかなる行いにおいても]神とその使徒に先んじてはならない。神に従いなさい。神はすべてを聞き、知っておられる」

 

「さまざまな行いにおいて神とその使徒に先んじてはならない」という言葉が意味するのは、すべての問題において、神とその使徒よりも優位であると考えてはならないということです。預言者のような偉大な指導者に対しては、いかなる言動や計画においても、彼らに先んじてはならないというのが原則になっています。とはいえ、それは、意見や提案があっても、宗教の指導者に示してはならない、という意味ではありません。指導者よりも先に何かを認めたり、先んじて何かを行ったりしてはならない、ということを意味します。

 

預言者の人生の中では、人々が預言者の指示を待たずに行動を起こす、あるいはそれに大きく遅れるという例が見られます。たとえば、イスラム暦の断食月、預言者がメッカ征服に向かっていた際、多くの人がそれに同行していました。一部は馬に乗り、一部は歩いていました。途中の滞在地で預言者は一日の断食明けの食事を取りました。同行者たちも食事を取りましたが、一部の人々は預言者に優ろうとするために断食明けの食事を取りませんでした。預言者は彼らを「罪を犯した一団」と呼びました。次の節は、2つ目の指示に触れています。

 

「信仰を寄せた人々よ、あなた方の声を預言者の声よりも大きくしてはならない。あなた方の一部が別の人々と大きな声で話しをするように、彼と大きな声で話してはならない。あなた方が知らないうちに、あなた方の行いが台無しにされることがないように」

 

 

この節によれば、預言者のもとで、彼よりも大きな声で話すのは好ましいことではなく、誰も預言者と大きな声で話しをすべきではありません。それはある意味で、預言者に対する礼を失した行為にあたります。

 

 

アル・ホジョラート章の第3節は、神の指示に従って行動し、預言者に対する礼儀を守る人々の報奨を述べています。

 

「神の預言者のもとで声を低くする人々は、神から、敬虔さのために心を試された人々である。彼らには偉大なる報奨と赦しがある」

 

明らかに、預言者は神の言葉を伝える使徒です。預言者への礼儀を守ることは、すなわち、神への礼儀を守ることに相当します。コーランは、預言者に対して礼儀を守ることを、敬虔さを受け入れるための心の準備と心の清らかさのしるしであり、偉大な報奨と赦しにつながるとしています。

 

アル・ホジョラート章の第4節は、神の指示を無視する人々のおろかさについて触れています。

 

「部屋の向こう側から大きな声で汝を呼ぶ人々、彼らの多くは理解しない」

 

ホジョラートとは、部屋を意味するフジュラの複数形です。ここでは、預言者のモスクの傍らにあり、彼の家族の滞在場所であった複数の部屋に触れています。おろかな一部の人が、預言者に用事があったとき、預言者の家の裏にあったこれらの部屋の前に立ち、大きな声でぶしつけに、「ムハンマドよ、外に出てこい」と大きな声で叫んでいました。この節は、イスラム教徒はこのような好ましくない行いを避けるようにとしています。なぜならこのような行いは、預言者の地位にそぐわないものだからです。

 

アル・ホジョラート章の第5節では、このように続けられています。

 

「またもし彼らが待っていたなら、彼らのためにより良いことだった。神は寛容で赦される方であられる」

 

明らかに、預言者に対して礼儀を守り、このような状況で耐えることは、神の慈悲と偉大な報奨の源になります。イスラムは、他人を尊重する行動や付き合いの礼儀を守ることに大きな重要性を置いており、それはイスラムの教えに含まれています。イスラムの預言者とイマームたちは、どのような状態にあっても、道徳的な教えに溢れた好ましい態度で他人に接していました。

 

 

コーランの教えの一つは、社会に愛情と友好を広めることです。そのため、敬虔な人間は互いに同胞であるとしています。このことから、人々は同胞の過ちを許し、気分が落ち込んだり、苦しい状況にあるときに互いに優しくし、約束を守り、自分が良いと思うことを他人のためにも好み、人々との間に平和と同胞愛、安全な雰囲気を作る必要があるのです。

 

アル・ホジョラート章の第11節と12節は、社会的な道徳に関していくつかの点を指摘しています。これらの節を見てみましょう。

 

「信仰を寄せた人々よ、あなた方のうちの一団が別の一団を嘲笑してはならない。恐らく彼らはこちらの人々よりも優れているかもしれない。女性たちが別の女性たちを[嘲笑してはならない]。恐らく彼らはこちらの人々よりも優れているかもしれない。互いにあら捜しをしたり、醜い呼び名で読んだりしてはならない」

 

 

ここで、コーランは、敬虔な人々に、「このような好ましくない行いを控えなさい」と警告しています。誹謗や嘲笑は、自分の方が優れているという感情や高慢さからくるものであり、歴史の中で、多くの流血の争いや対立の原因となってきました。残念ながら、一部の人々は、他人を醜い呼び名で呼び、侮辱したり、そうすることで報復したりします。過去に違反を犯し、その後で罪を悔い改め、清らかになった人が、再び、相手によって自分の暗い過去を思い起こさせられるような呼び名で呼ばれること。イスラムはこのような人道に反する醜い行いを強く否定し、好ましくない内容を含み、イスラム教徒を侮辱するような呼び名で呼ぶことを禁じています。そのため、この節は終わりに次のように述べています。

 

「信仰を寄せた後に醜い呼び名で呼ぶことは悪いことである。罪を悔い改めない人々は自分に圧制を行っている」

 

注目すべきなのは、人間の名誉や威信も、財産や命と同じように大切なものであり、侵害されてはならないということです。これは社会に安全をもたらします。

 

 

アル・ホジョラート章の第12節は、この他、他人に対して良い感情を持つこと、邪推を止めること、悪口を言わないことといった、別の道徳に関する点を指摘しています。

 

「信仰を寄せた人々よ、多くの憶測を控えなさい。一部の憶測は罪である。[他人のことに関して]邪推してはならない」

 

コーラン第49章アル・ホジョラート章私室

 

他人に対する憶測を控えることは、社会関係を健全に保つための論理的な指示です。実際、憶測は、他人の隠れた問題について邪推し、それを暴くためのきっかけとなるもので、イスラムはそのような醜い行いを許していません。イスラムは総体的に、人々は個人生活において完全な安全の中で暮らすべきだとしています。誰かが他人のプライバシーを侵害し、邪推すれば、他人の威信を傷つけ、緊張した不安な環境が生まれてしまいます。

 

 

アル・ホジョラート章の第12節は続けて、このように述べています。

 

「また、互いの悪口を言ってはならない。あなた方のうち、死んだ同胞の肉を食べるのが好きな者はいるだろうか?あなた方は間違いなく、[それを]嫌うだろう。神に従いなさい。神は罪の悔悟を赦され、寛容な方であられる」

 

悪口や陰口、秘密の暴露によってイスラム教徒の同胞の名誉を損なうことは、死人の肉を食べることと同じです。この例えは、悪口が大きな罪としていかに醜いことであるかを物語っています。イスラムは、社会の連帯と統一を重視しています。この統一を強めるものすべてを、イスラムは勧めており、この統一を弱めるすべてのものを、イスラムは非難しています。悪口は、社会の統一と連帯を損ないます。なぜなら、人々が互いに悪い見方を持つようになり、信頼を失い、憎しみを心に芽生えさせるからです。こうして社会的な結びつきが揺らいでしまいます。

 

 

アル・ホジョラート章の第13節は、人間をはかる基準が述べられています。

 

「人々よ、我々はあなた方を男と女に創造し、あなた方を様々な部族にした。互いを知りあうことができるように。あなた方のうち、神の御前で最も愛されるのは、最も敬虔な人々である。神は全知全能であられる」

 

全ての人間の根は一つです。そのため、血縁関係や人種、部族やその他の無意味な点によって、自分を他人よりも優れていると見なしたり、高慢になったりする根拠はありません。これらは人間の優越を決める基準ではありません。神の御前で人間の優越を決める唯一の基準は、敬虔さ、正直さであるのです。