6月 03, 2018 21:14 Asia/Tokyo
  • コーラン第50章ガーフ章
    コーラン第50章ガーフ章

今回は、コーラン第50章ガーフ章を見ていきましょう。

ガーフ章はメッカで下され、全部で45節あります。この章は、アラビア語のアルファベットのガーフで始まっているために、この名前が付けられています。この章では主に、復活の問題について述べられており、ほぼ全ての節が、この問題を軸にしています。

 

ガーフ章の内容は、概して、コーランの偉大さ、不信心者の復活に対する否定と驚き、創造の秩序や最初の創造に注目した上での復活の論証、以前の反抗的な民の状況と恐ろしい運命、最後の審判の日のための人間の言動の記録、死と現世から来世への移動、最後の審判で起こる出来事と、天国と地獄の人々のそれぞれの状況、神への注目と崇拝、この世の終わりの出来事と最後の審判の始まりといった事柄になっています。

 

ガーフ章の第1節から3節を見てみましょう。

 

「ガーフ。聖典コーランに誓って。彼らの間から警告する者が現れたことに、彼らは驚き、不信心者たちは言う。『これは不思議なことだ。私たちは死んで土になったとき[、再び蘇らされるのか]。そのような復活などありえない』」

 

この3つの節では、不信心者や多神教徒の根拠のない否定に触れています。彼らは、警告を与える預言者がどのようにして、自分たちの間から現れ、彼がなぜ、自分たちと同じ人類なのかと驚いていました。また、彼らにとって、人間が死んで腐った後に、再び蘇るということは非常に不思議なことでした。彼らは再び生を与えられることを、ありえない、理性からはかけ離れたことだと考えていました。

 

コーランは、彼らの否定と驚きに触れ、このように語っています。「あらゆることに精通している神は、大地が我々の体から減らすものを知っておられ、必要なときに全てを集められる。また、人間の行いの清算は、復活のために保存される。これらすべては記録されており、この世のいかなる行いも見落とされず、全ての行いが残される」

 

ガーフ章の第5節では、彼らが、真理が彼らのもとにやって来たときに否定したという重要な点を指摘しています。実際、この節は、真理が完全に明らかになったにも拘わらず、彼らが意識的に真理を否定している点に言及しています。この節は終わりに、次のように語っています。「彼らは否定したために、常に、戸惑い、混乱した状態にある」

 

 

ガーフ章の節は、神の無限の力に触れています。第6節を見てみましょう。

 

「彼らは、頭上にある天を見ていないのか。我々がそれをどのように打ちたて、[星々で]飾ったかを。そこにはいかなる裂け目もない」

 

この節で、「見る」という言葉が意味しているのは、思考を伴ったもので、人間に、この美しく驚くべき天の創造主である神の偉大な力に注目するよう促しています。天には裂け目がない、これがい意味するのは、そこに何の欠点も不釣合いもないということです。大気圏は、盾のように地球を隕石の衝突から守っています。それらが地球に到達する前にそれらを燃やし、消滅させてしまうのです。

 

その後、大地の創造に触れています。ガーフ章の第7節を見てみましょう。

 

「また、我々は大地を広げ、そこに山を据えた。それからそこに、あらゆる種類の植物を生き生きと茂らせた」

 

大地の創造とその拡大、根が続き、内外の圧力に対して盾のように地球を守る山々の誕生、これほど美しい植物の出現、これらはみな、神の無限の力を証明するものです。

 

ガーフ章の第8節では、次のように語っています。「我々はこれらを、罪を悔い改め、神へと立ち返る僕たちの洞察力と注目の源とした。これほど壮大で秩序のある天と地を創造する力を持つ存在が、死人を再びよみがえらせることができないはずはない」

 

コーラン第50章ガーフ章

 

ガーフ章の第9節から11節で、神は次のように語っています。

 

「また、我々は天から恩恵に溢れた雨を降らせた。そしてそれで果樹園や収穫するための種を生やした。多くの房をつける背の高いナツメヤシの木。[これらは]僕たちの糧のためのものである。雨で死んだ大地を蘇らせた。[死んだ者たちを蘇らせ、墓から]出すのもこれと同じである」

 

このように、神は僕たちへの様々な恩恵を思い起こさせ、このように語っています。「あなたたちは復活のしるしを毎年、現世で見ている。枯れて死んだ大地が、降り注ぐ雨のしずくによって動き出し、蘇るのを。この生への動きは、世界の創造主である神が、死んだものを再び蘇らせるという事実を物語っている」

 

ガーフ章の第11節から14節までは、預言者を慰め、こう語っています。「不信心者に否定されたのは汝だけではない。以前の民もまた、彼らの預言者を否定した。そのために、彼らに対して神の約束が果たされ、痛ましい運命に陥った」

 

 

ガーフ章の第19節は、死という現象に触れています。

「そして、死の昏睡が正当に訪れる。[彼はこう言われる。]これこそはあなたが逃げて来たものである」

 

死の昏睡とは、死の前段階が訪れたことにより、人間が感じる酔いのような状態であり、強い不安に包まれます。死は、実際、重要な移行の段階であり、人間の世界とのすべての結びつきが断たれ、完全に知らない新たな世界に足を踏み入れます。人間は死の瞬間に新しい見方を得、現世の不安定さ、はかなさを悟り、死後の出来事を多少なりとも目にします。ここで、その人は全身を恐怖に包まれ、酔いに似た状態に陥ります。しかし、実際に酔っているのではありません。

 

コーランは、このように語っています。「死の昏睡に陥った人には、これこそ、あなたが逃げていた事柄だと言われる」 そう、死とは多くの人が逃げようとする事実です。なぜなら、死を、存続の世界への入り口ではなく、終わりであると考えるからです。あるいは、現世やその恩恵に強い執着があるため、あるいは自分の行いの記録が酷いものであるためかもしれません。いずれにせよ、このような運命は全ての人に起こるものであり、いつの日か、死は私たち全てに必ず訪れるのです。

 

敬虔な人々にとって、死は、神の恩恵に溢れたより広い世界への移動の始まりです。それでも、この移動は、誰にとっても簡単なものではありません。なぜなら、人間の魂は長年に渡ってその体に慣れ親しみ、結びついてきたからです。シーア派6代目イマーム、サーデグは、「なぜ魂が肉体から離れるとき、不安になるのか」と問われたとき、こう答えました。

 

「それは、肉体がそれと共に成長してきたためである。それはちょうど、虫歯が抜かれるのと同じで、後には当然、安らぎを感じるだろう。だが、離れる瞬間は辛いものである」

 

この節では、死が正当なものであることが強調されています。死は全ての人の家の扉を叩き、全ての人を連れて行きます。その事実を否定することはできません。死が本物であることへの注目は、よく考え、正しい道を選択し、永遠の生に備える全ての人への警告なのです。

 

 

ガーフ章の第39節と40節を見てみましょう。

 

「汝は彼らの言うことに対して耐え忍び、日の出の前と日の入りの前に汝の神を崇拝し、称賛しなさい。また夜のいっときに、ひれ伏した後で神を称賛しなさい」

 

抵抗と忍耐力のみが、問題を克服し、敵の誹謗中傷に耐えることができます。忍耐と抵抗には支えが必要なことから、この節は続けて、礼拝を勧めています。なぜなら礼拝は、神の名を唱え、世界の創造主である神とつながり、人間にとって最高の支えであるからです。神は預言者に対し、純粋な心と愛情によって、日の出前と日の入り前に神を称賛し、夜のいっときにも、ひれ伏した後で称賛しなさいとしています。この礼拝による神への継続的な称賛は、雨のしずくのように人々の心や魂に浸透し、人間に喜びと活力を与えるのです。

 

 

ガーフ章の終盤の節は、再び、復活の問題に触れています。

 

「また、耳を傾けなさい。布告者が近くから叫ぶ日に。その日、すべての人は[復活]の音を正しく聞くだろう。その日は[墓から]出る日である。よみがえらせ、死なせるのは我々であり、帰りつくところは我々のもとのみである。その日、大地は急速に彼らの上で裂け[、墓から出される]だろう。このような召集は、我々にとって容易なことである」

 

布告者が叫ぶとは、実際、イスラフィールのラッパのことを指しており、それは二度目のラッパの音、すなわち、最後の審判と召集の音です。その日は人間が墓から出される日です。その後、この大きな裁判の支配者が誰であるかを明らかにするために、コーランは次のように語っています。「よみがえらせ、死なせるのは我々であり、すべての人が帰りつくところは、我々のもとである。その日、大地は彼らの上で裂け、彼らは生き返って急速に出て来る。この最後の審判における人々の召集は、我々にとって容易である」(了)