6月 17, 2018 21:42 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、前回に引き続き、コーラン第74章アル・ムッダスィル章くるまる者をお届けしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ムッダスィル章はメッカで下され、全部で56節あります。メッカで下された章には、神への導き、復活、多神教徒との闘争、反対者への神の責め苦の警告という特徴がありますが、この章ではそのことが完全に反映されています。

 

アル・ムッダスィル章で述べられているのは、イスラムの預言者の導きの原則、復活、高慢な人間のしるし、人間の行動と運命の関係、天国の人々の特徴、地獄の見張り番と神の責め苦を担う者たちの特徴といった事柄です。

 

アル・ムッダスィル章の第18節から25節を見てみましょう。

 

「彼は[コーランとの闘争について]思案し、その内容を用意した。彼に死がありますように。彼はどのように[真理との闘争のための]内容など準備したのか。彼に死がありますように。彼はどのようにして、[悪魔の計画と]内容を用意したのか。その後、彼は一瞥した。そして顔をしかめ、急いで事に取りかかった。それから[真理に]背を向け、高慢になった。そしてとうとう言った。『これ[コーラン]は、これまでの魔術と同じ、魔術に他ならない。これは人間の言葉に他ならない』」

 

これらの節は、メッカのクライシュ族の著名な有力者のひとり、ワリード・イブン・モガイラ・マフズーミに関するものです。彼は、神から多くの恩恵を与えられていたにも拘わらず、真理を否定し、預言者を魔術師、コーランを魔術と呼びました。このような言い伝えがあります。アラブの多神教徒たちは、メッカ巡礼を前に、ある場所に集まっていました。アブージャハル、アブーソフィヤーン、ワリード・イブン・モガイラ、ナズル・イブン・ハーレスといった有力者たちは、預言者に対抗する上で、共通の意見を見出そうと互いに相談しあいました。多神教徒たちから、その知性と勇気を認められていた、メッカの著名な人物、ワリードは、他の有力者たちに向かって言いました。

 

「あなたたちは高い地位と賢さを兼ね備えているが、あらゆる場所から人々がやってきて、様々な答えを求められている。このため意見を一つにした方がいい」

それから彼らに尋ねました。「あなたたちはムハンマドについて人々にどのように語るのか?」 彼らは言いました。「彼は詩人であると言うだろう」

 

ワリードは顔をしかめて言いました。「私たちは多くの詩を聞いたことがある。だが彼の言葉は詩には似ていない」

すると彼らは言いました。「占いや予言だと言う」

ワリードは言いました。「彼のもとに行くと、占い師たちが言うような言葉は彼の中には見られない」

彼らは言いました。「狂った人物だ」

ワリードは言いました。「だが彼のもとに行っても、彼には狂人の痕跡は見られないだろう」

彼らは言いました。「魔術師だ」

ワリードは、魔術師とはどのような意味かといいました。彼らは答えました。「敵と友人の間に敵対を作り出す者のことだ」

 

ワリードは少し考えてから、言いました。「その通り。彼は魔術師だ。そのような行いをする」

 

ワリードは、自分でも気づかぬうちに、そのような言葉によって、コーランを強く称賛していました。彼は、コーランが驚くべき魅力を持ち、あらゆる人間の心を魅了すること、それがコーランの驚異であることを示しました。なぜなら、コーランは、魔術師の行いには似ておらず、精神性にあふれ、たぐいまれなる影響力を持った確かな言葉であるからです。そして、ワリードも言っているように、もし人間の言葉であったなら、他の人々も、それと同じ物をもたらすことができたはずでした。しかし、コーランは何度も、反対者に対し、対抗してみるようにと挑戦を呼び掛けていますが、イスラムに強く反対する敵の誰一人として、たとえどれほどアラビア語の扱いに優れていたとしても、コーランと同じレベルの章を一つとしてもたらすことはできませんでした。これこそ、コーランの奇跡なのです。

 

 

アル・ムッダスィル章の第32節から34節は、月と夜と朝に誓いを立て、これらの現象の複雑な神秘について述べています。それは、自然界の科学的な神秘であり、神が唯一であることと神の力のしるしです。

 

これらの誓いは、すべての人間の運命は、その行いによるものだという、重要な原則に触れています。人間が善良で清らかな行いをすれば、最後の審判の日、その人の行いの記録は、信仰と敬虔さゆえに、右手に与えられます。彼らは信仰と善行によって天国へと入れられるのです。

 

アル・ムッダスィル章の一部の節は、このような行いの記録を右手に与えられる人々と、それとは反対のグループの人々の状態について触れ、次のように語っています。「彼らは天国の楽園にいる。そして、罪を犯した人々に尋ねる。何があなた方を地獄へと突き落としたのか?」

 

罪を犯した人々は、この質問に対し、自分たちの罪を認めます。「私たちは礼拝を行う者ではなかったと言われました。もし礼拝を行ったら、礼拝が私たちに神のことを思い起こさせ、堕落や反対を否定し、神の正しい道に導かれていたでしょう」 彼らはまた、このように語ります。「私たちは、恵まれない人々に食事を与えてやりませんでした」

 

恵まれない人々に食事を与えるというのは、どうやら、食べ物から衣服、住宅、その他困っている人への必須の援助を意味し、義務とされるザカート・喜捨を指しているようです。地獄の人々は次のように続けています。「また、私たちは常に、偽りを信じる人々の仲間となり、死が訪れるときまで、最後の審判の日を否定していた」

 

このような会話は、礼拝、ザカート・喜捨、偽りを信じる人との付き合いをやめること、最後の審判を信じることが、人間を導き、教育する上でいかに重要であるかを物語っています。それゆえに、“調停を行う者の執り成しは、否定者の役には立たず”、彼らは神の責め苦の中に永遠にとどまらなければなりません。なぜなら、調停には好ましい土台の存在が必要ですが、この、罪を犯した人々は、その土台を完全に壊してしまったからです。調停は、弱い若木の根元に注がれる透明な水のようなもので、もしその若木が完全に乾いて死んでいれば、そこに透明の水をかけても、それが生き返ることはないのと同じです。

 

この節はさらに、調停や執り成しは無条件のものではなく、罪を犯してもよいという意味ではない、という点を強調しています。調停や執り成しは、人間を教育するための要素であり、少なくとも人間を、赦しの可能性がある段階まで至らせ、神や宗教の指導者たちとの関係が完全に断たれないようにするためのものなのです。