サウジアラビア皇太子のこの1年の政
こ回は、ムハンマド皇太子の、国内と地域におけるこの1年の政策について見ていきましょう。
サウジアラビアのサルマン国王は、昨年6月、突然、息子のムハンマド副皇太子を皇太子に昇格させました。
サルマン国王は、2015年1月にアブドラ国王が死去した後、新国王に就任しました。
サルマン国王は、この3年の間に3人の皇太子を指名しました。ムクリン皇太子、ナエフ皇太子、そしてムハンマド皇太子です。
ナエフ皇太子は、サウジアラビアを建国したアブドラ初代国王の孫でした。しかし、王位継承順で次の国王となるナエフ皇太子は突如解任され、ムハンマド皇太子が、次期国王になる可能性が高くなっています。
この3年、ムハンマド皇太子は、サウジアラビアの国防大臣と経済部門のトップを務め、特にこの1年は、その権力を拡大してきました。実際、サウジアラビアの政治、軍事、経済部門は、この1年、ムハンマド皇太子の支配下にあったと言えるでしょう。
ムハンマド皇太子によるこの1年の国内における措置は、王子たちの排除や表面的な社会改革でした。
ムハンマド皇太子は、皇太子に昇格した後、特に女性に関する社会改革に取り組みました。中でも最も重要なのは、女性が自動車を運転する権利を認めたこと、スタジアムでのスポーツ観戦や映画鑑賞が解禁されたことです。
実際、ムハンマド皇太子は、特に女性や若者たちの社会的な自由を拡大しようとしましたが、この改革は根本的なものではなく、表面的なものに限られました。この改革の主な目的は、国王になるために国民の支持を集めること、これまでのサウジアラビアの高齢の指導者と自分の違いを示すことにありました。
一部のメディアは、多くの宣伝活動によって、この改革に注目しましたが、多くのアナリストは、この改革は象徴的なものに過ぎず、サウジアラビアの市民の自由を強化するものではないとしています。フランスの新聞、レ・ゼコーは、次のように記しています。
「ムハンマド皇太子は、サウジアラビアの若者をうまく欺いている。彼は、ツイッター、インスタグラム、ユーチューブなどのソーシャルメディアの活動に関して、国の若者たちをコントロールする重要性をよく理解しており、彼らの自由を求める心を欺こうとしている。ムハンマド皇太子は、さまざまな措置を急いでおり、若者たちが彼に対してクーデターを起こす可能性があることをよく知っている」
アメリカCIAの元分析官、ジョン・キリアコウ氏は、次のように語っています。
「この動きは、ムハンマド皇太子を他の保守的な王子たちとは違うということを示すための政治的な運動だと考えている。ムハンマド皇太子は、これらの措置により、リベラルな人間であるように見せ、政治的な負担を少なくしようとしている」
ムハンマド皇太子の改革が象徴的であることを示す要素のひとつは、社会的な改革と同時に、政治活動家や市民活動家に対する暴力が拡大していることです。この1年、サウジアラビアでは、何十人もの政治活動家や市民活動家が逮捕され、長期にわたる禁固刑を言い渡されています。
これについて、国際関係の専門家、シェイホルエスラーム氏は、次のように語っています。
「ムハンマド皇太子の改革は表面的なもので、その目的は、世論をあざむくことにある。人権機関や活動家からの支持につながることはない」
ムハンマド皇太子が国内で行った重要な措置のひとつは、2017年11月の多数の王子の拘束でした。ムハンマド皇太子は、2017年11月、王子や政府高官数十人が、汚職の疑いなどで一斉に逮捕されました。
逮捕者の中には、著名な投資家で富豪のアルワリード・ビン・タラル王子や、アブドラ前国王の息子で後継候補の1人だったミテブ国家警備隊長も含まれていました。
政治評論家らは、汚職を理由にしたこの一斉逮捕は、ムハンマド皇太子が、権力を定着させ、後継者争いで優位に立つためのものだったとしています。アメリカの新聞、ロサンゼルスタイムズは、次のように伝えました。
「富、権力、家系のいずれも、サウジアラビアの王子たちを守ることはなかった」
イギリスの新聞、ガーディアンは、次のように報じました。
「ムハンマド皇太子の汚職対策は、完全に矛盾した主張である。なぜなら、自分自身が汚職にまみれているのに、その対策を訴えることはできないからだ」
ムハンマド皇太子は、最終的に、莫大な保釈金を回収して彼らを解放しました。
こうした中、ムハンマド皇太子は、今年4月にその報いを受けたようです。情報筋は、4月21日の夜中、サウジアラビアの王宮周辺で銃撃があったことを明らかにしました。サウジアラビア政府は、この銃撃はおもちゃの無人機のせいだったと主張しましたが、1ヶ月、ムハンマド皇太子が姿を消したことから、王宮周辺での銃撃は、ムハンマド皇太子に対するクーデターであったと見られています。
ムハンマド皇太子は、地域レベルでは、近隣諸国との緊張の拡大と、シオニスト政権イスラエルとの関係正常化という2つの政策を進めました。カタールとサウジアラビアの緊張は、2017年6月5日、つまりムハンマド皇太子が就任する前から始まっていましたが、ムハンマド皇太子の就任によって、この緊張は拡大しました。
ムハンマド皇太子は、カタールなどの小国を軽視しており、カタールを自分たちに従わせようと努め、この国との緊張を重要なことではないものと捉えていました。しかし、アナリストによれば、ムハンマド皇太子の地域政策に対するカタールの抵抗は、サウジアラビアにとって重要な敗北と見なされています。これについて、フランスの新聞、レ・ゼコーはこう伝えています。
「ムハンマド皇太子は、カタールをテロ組織への支援で非難しているが、サウジアラビアに対しても同様の疑惑が存在することから、これはカタールを封鎖するための口実に過ぎなかった。しかし、この封鎖は逆の結果をもたらし、カタールは、このときから、サウジアラビアのライバル国であるイランとの関係を強化することになった」
この緊張の最も重要な結果は、ペルシャ湾岸協力機構が崩壊寸前に陥ったことです。2017年12月、クウェートで行われたこの機構の首脳会議は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンの首脳が欠席する中、わずか15分で終了しました。ブルッキングス研究所の研究員であるアブドルワハブ氏は、これについて次のように記しています。
「今後、起こる可能性のある事柄はさておき、一つだけ、完全に明らかなことがある。それは、ペルシャ湾岸協力機構は、これまでと同じ形には戻らないということだ」
ムハンマド皇太子が地域レベルで行った別の措置には、レバノンのハリル首相をリヤドに呼び、2017年11月、強制的に辞任を発表させたことがあります。ハリル首相は、リヤドで辞任の声明を読み上げた後に拘束されました。
この措置は、レバノン国内に衝突を生み出す目的で行われましたが、各国の関係者や政治評論家は、ハリル首相を拉致して強制的に辞任させたものと見ています。ハリル首相は、解放されてレバノンに戻った後、辞任を撤回し、レバノンのシーア派組織ヒズボッラーに関する見解の表明を控えました。
サウジアラビアがこの1年に行った重要な地域政策のひとつは、シオニスト政権との関係正常化の意向を明らかにすることでした。ムハンマド皇太子、アメリカのトランプ大統領、シオニスト政権のネタニヤフ首相は、中東の悪のトライアングルを形成しました。
ムハンマド皇太子は、アメリカ大使館のテルアビブから、ベイトルモガッダス・エルサレムへの移転に関するトランプ大統領の決定に反対しなかっただけでなく、この計画を支持しました。ムハンマド皇太子は、さらに、トランプ大統領の違法な決定を批判していたヨルダンなどの国に対して圧力をかけました。
ムハンマド皇太子は、今年3月にアメリカを訪問した際、シオニスト政権を正式に認め、この政権とパレスチナの緊張継続の責任は、パレスチナにあるとしました。この発言は、シオニスト政権の関係者をも驚かせました。シオニスト政権に非常に近い新聞、イスラエル・アルヨウムは、これについて次のように記しています。
「サウジアラビアの皇太子は、今後も予想外の発言を続けるだろう」
こうした中、ムハンマド皇太子の発言は、アラブ世界の人々の怒りや反発を招いています。アラブ諸国の人々や活動家の多くは、ムハンマド皇太子の発言は、国王になるためのもので、アメリカ政府に認められるための努力だったと考えています。
ムハンマド皇太子が就任してから2年目に入っていますが、この1年、サウジアラビアの国内では表面的な社会改革が行われ、権力争いが激しさを増しており、地域レベルでも、混乱が拡大しました。ムハンマド皇太子の地域における緊張を拡大するような政策と同時に、イエメンに対する戦争も、この1年で激しさを増し、アラブ諸国の関係者の懸念を招いています。これは、王位を狙うムハンマド皇太子にとって、マイナスの結果になっています。