7月 04, 2018 20:02 Asia/Tokyo

今回も前回に引き続き、イラン北西部の大都市タブリーズについてご紹介してまいりましょう。タブリーズは、今年のイスラム世界の観光の都に選ばれるとともに、イランで最も発展した、しかも最も健全で美しい町としての地位を獲得しています。まずは、この大都市の歴史の移り変わりについてお話してまいります。

タブリーズは、イラン北西部に位置する大都市で、東アーザルバーイジャーン州の中心都市となっています。この大都市の南北および、東側の地域は山岳地帯となっており、西側には平坦なタブリーズ平原が広がり、塩分を含む河川・タルヘルード川(トルコ語でアージチャーイ)が流れ、山間部に平原が形成された形となっています。また、タブリーズからテヘランまでの道のりはおよそ599キロとされています。

タブリーズ市内とその周辺には、2つの河川が流れています。1つは、先ほどご紹介したタルヘルード川で、これは永久的河川としてタブリーズの北西部を流れています。そして、もう1つはこの河川の支流ともいえるグリチャーイ川で、タブリーズの中心部を流れた後、この町の北西部でタルヘルード川と合流しています。

タブリーズの気候は、夏は気温が上がり乾燥し、冬は寒さが厳しくなるステップ気候です。冬の寒さは、この町の近隣にある高い山岳地帯や海抜高度が高いことの影響を受けたものです。夏場は、相当に乾燥し気温も上がりますが、サハンド山という山の近くに位置し、また周辺には数多くの樹林が存在することから、比較的快適な気候となっています。

 

 

タブリーズの歴史の始まりの正確ないきさつについては、まだ明らかにされてはいませんが、この町に関する初めての記録が出てくるのは、紀元前のメソポタミア北部に起こったアッシリア王国のサルゴン2世の碑文とされています。さらに、2001年から2011年にかけて、タブリーズ中心部周辺にある鉄器時代博物館の敷地内で実施された発掘調査の結果、現在のタブリーズ市が位置する地域において、紀元前2000年から紀元前1000年の時代にかけて、文明が存在していた事が判明しています。

タブリーズは、これまでの歴史を通して、この地を支配したいくつもの王朝の首都に選ばれています。現在のタブリーズは、トーレジと呼ばれる、この地域で最も重要な商業の中心地の1つの跡地に建設され、ここはかつて、東西を結ぶ架け橋として非常に重要とされていました。タブリーズの名は、西暦297年にアルメニア王国の王ティリダテス3世の名に因んで、タウリスと呼ばれたことに由来します。また、現在のアルメニアにあたる地域がパルティア系の支配者に統治されていた時代にも、この地域に首都がおかれていました。

 

イスラム伝来後の9世紀には、タブリーズは拡大発展し、アーザルバーイジャーン地域におけるその重要性が高まりました。当時のイスラム政権・アッバース朝の為政者アル・ムタワッキルは、西暦858年にタブリーズにて大震災が発生した後、この町の復興再建を急ピッチで進めるよう命令を出しています。

その後再び拡大発展していたタブリーズの町は、1043年にまたもや大震災による大きな被害を受けました。その少し前の1037年には、当時のペルシャ詩人で旅行家でもあったナーセル・ホスローがタブリーズを訪れています。

イランの歴史家モハンマド・ブン・アリー・ラーヴァンディーが記した、11世紀のセルジューク朝時代に関する歴史書『ラーハトゥル・スドゥール』によれば、セルジューク朝の支配者トゥグリル・ベグは、タブリーズの近郊で自らの婚礼の儀式を挙げたとされています。また、12世紀にガズナ朝の為政者スルタン・マフムードが逝去してからは、タブリーズの支配をめぐり、彼の息子のダーヴードとマスウードの間で緊張が高まりました。この争いでは、兄ダーヴードが勝利を収め、タブリーズを自らの統治政権の本拠地に定めています。

歴史的な史料によれば、タブリーズは14世紀以降は常に、アーザルバーイジャーン州の中心だったとされています。今から700年前から600年前にかけての間に、タブリーズは2回にわたりモンゴル軍の襲撃を受けており、1230年には最終的にタブリーズの町とアーザルバーイジャーン地方全域を掌握しました。

モンゴル人の王朝・イル・ハン朝時代には、タブリーズは隆盛を極めました。イル・ハン朝の2代目の君主アバガ・ハーンは、タブリーズをこの王朝の首都に定め、この町から命令を発して、エジプト・ナイル川から中央アジアにいたるまでの広範囲な地域の統治を続けたのです。イル・ハン朝の第7代君主ガザン・ハーンは、タブリーズにて経済、行政、社会の各分野での大きな改革を開始し、この時代の2つの衛星都市における建造物のほか、数多くの建造物を建設しています。イタリアの旅行家マルコポーロは、1275年にタブリーズに立ち寄った際、この町の繁栄ぶりについて、次のように述べています。

「タブリーズの町は非常に大きく、心を和ませる美しいいくつもの庭園に囲まれている。また、この町の立地条件も非常にすばらしい。この町には、世界各地からさまざまな品物がやってくる。この町には、ヨーロッパ商人がやってきて、世界のほかの地域から運ばれてきた品々を買い付けてゆく」

 

タブリーズの繁栄時代はその後も、ティムール朝、カラコユンル朝(黒羊朝)、そしてサファヴィー朝時代初期にまでわたり続きました。1500年には、サファヴィー朝のイスマーイール1世がタブリーズを占領し、この王朝時代の最初の首都に定めています。タブリーズが、当時のイランとオスマン・トルコの国境付近に位置していたことから、タブリーズはたびたびオスマン朝の脅威にさらされました。1548年にサファヴィー朝のタフマーセブ王がガズヴィーンに遷都するまで、タブリーズはたびたびオスマン朝に占領されています。

 

サファヴィー朝時代のタブリーズ

 

今から200年ほど前にガージャール朝時代が始まると、タブリーズは再び為政者たちの注目を集め、皇太子の宮殿が置かれました。しかし、この時代にイランとロシアの間で戦争が勃発したことにより、タブリーズはロシアから執拗な攻撃を受け、遂に1826年、ロシアに占領されてしまいます。しかし、両国間の平和条約の締結により、タブリーズは再びイラン領となりました。

ロシアとの戦争が終結し、平穏な時代が訪れると、当時の皇太子でアーザルバーイジャーン地方の総督だったアッバース・ミールザーが、タブリーズにて近代化政策と大規模な改革を開始しました。彼は、タブリーズの新鋭化計画を打ち出し、その復興再建に着手したのです。アッバース・ミールザーはまた、タブリーズにおける近代的な郵便制度や税制の基盤を打ち立てました。

タブリーズが太古の昔からヨーロッパへと通じるイラン人の交易ルート、そしてシルクロードの要衝に位置していたことから、この町では商業に加えて文化や芸術が栄えました。長い歴史において、タブリーズは文化交流や交易により栄え、経済の中心地であったことから、この町では社会組織や民間組織が発展しました。

タブリーズの発展は、ガージャール朝時代に相対的な安定が確立し、またこの町が東西の交易ルート上に立地するとともに、戦略的な位置づけにあった事から、さらに加速しました。このため、イラン全体での発展や近代化は、タブリーズから始まったといえます。この時代にはさらに、タブリーズにて多くの思想の潮流や、経済・社会・技術面での変化が起こり、また数多くの民間組織が形成されました。

 

現代のタブリーズの人々は日常語として、トルコ系諸語の1つでアーザリー語として知られる言語を使用しています。彼らは、地域にトルコ語が伝わる前まで、アゼルバイジャン語を使用しており、この言語は17世紀ごろまでアゼルバイジャン地方に広まっていました。アゼルバイジャン語は、イランで使用されている言語の1つで、カスピ海南岸地域で使用されるターティー方言に近い言語とされています。

タブリーズの人口構成は、使用言語の面から分析すると、全体の96%がトルコ系のアーザリー族、2.9%がペルシャ系、そして0.6%がそれ以外の民族とされています。過去にタブリーズを訪れている歴史家や旅行家が残した記録や旅行記によれば、かつてはこの町に実に雑多な民族が暮らしていたとされています。

14世紀末から16世紀初頭にかけてのアグコユンル(白羊朝)朝時代のころにタブリーズを訪れた、イタリア・ベネチア出身の旅行家たちによれば、当時のタブリーズにはイラン人のほか、トルコ系民族、サファヴィー朝の支持者、さらにはアルメニア人が居住していたということです。サファヴィー朝のシャー・タフマーセブの時代にあった1525年、ポルトガル人の旅行家アントニオ・テンレイロは、タブリーズの人々について次のように述べています。

「タブリーズの町には、ペルシャ語を話す人々と、トルコ民族の一部が暮らしており、彼らは皆肌の色が白く、非常に美しい外見と容貌をしている」

タブリーズの住民の大半は、シーア派12イマーム派のイスラム教徒ですが、そのほかにもアルメニア正教のキリスト教徒、アッシリア教徒、ゾロアスター教徒、その他の宗派のキリスト教徒、さらにはごく少数のユダヤ教徒が暮らしています。タブリーズに暮らす少数派の宗教の人々の中でも、最も多いのはアルメニア人です。これらの人々は、オスマントルコによるアルメニア人の大虐殺の時代、そして第1次世界大戦中にタブリーズをはじめとするアーザルバージャーン地方に逃れ、定住した人々の末裔に当たります。タブリーズのアルメニア人の間で信奉されているのは、正確にはグレゴリウス派とされ、世界で最も古いキリスト教の宗派の1つとされています。

2016年現在のタブリーズの総人口は150万人と推測され、テヘラン、北東部マシュハド、中部イスファハーン、テヘラン西部キャラジ、そして南部シーラーズに次いで6番目に多い人口を擁しています。タブリーズは、ガージャール朝のナーセロッディーンシャーの時代の末期までは、イランで最大の人口を擁する都市となっていました。

 

タブリーズは、経済、産業、行政の中心であり、国際的な権威を有する事から。東アーザルバーイジャーン州で最も多くの移民を受け入れています。タブリーズに殺到する人口の一部を受け入れるため、タブリーズから南西に24キロ離れたところに新しい町サハンドが建設され、新たな住宅地、就労の拠点としてクローズアップされています。

かつて、タブリーズには8つの門があり、これらの門を通して外部から市内への人々の出入りが行われていました。その後、これらの門は拡張され、地元民のニーズの確保を目的に、また中枢部となるバザールに恒常的には人々が集まらないようにするため、その周辺により小規模なバザールが建設されました。その後次第に、後から設けられた小規模のバザールの周辺に住宅地が設けられ、それによってこれらの小規模なバザールは互いにつながり、市内のいたるところに新たな街区が形成されました。現在、タブリーズが日々拡大していることから、タブリーズ市内でもこれらの区域には、タブリーズのバザールと、旧来あるいは新たに作られた小規模のバザールが立地しており、市の中心とみなされています。

次回もどうぞ、お楽しみに。