イスラエルの民の反抗
コーランは、数々の節の中で、いろいろな形で神に感謝することのなかった民を非難し、それらの民の背きを、未来の人々のための教訓として述べています。今回の物語は、イスラエルの民の反抗についてお話しましょう。
太陽の光が、少しずつ夜の闇へとその場を明け渡し、空から姿を消そうとしていました。世界の果てに太陽が沈み、穏やかな海が、時折寄せる波と共に、それを飲み込んでいくかのようでした。それは大きな秘密を物語っていました。そのとき、海岸の片隅から、人々が話し合う声が聞こえてきました。突然、人々の中から男が立ち上がって言いました。
「いや、そんなことをしてはならない。それは神の命に反する行為だ」
すると、友人の一人が彼の手を取り、すぐに彼を座らせて、強い口調で言いました。
「どうしてそれをしてはいけないんだ? この計画なら、私たちはこれ以上、魚を釣るのに苦しまなくても済むじゃないか」
別の一人が言いました。
「その通りだ。いつも土曜になると、魚がたくさんいて、海岸近くまでやって来る。でも、他の曜日は、いつも魚たちは海の奥深くにもぐっていて、数匹の魚を釣るのにさえ、一苦労だ」
最初に立ち上がって反論を述べた男が答えました。
「でも、神は私たちに、土曜には漁をしてはならないと言われている。もし私たちがその約束を破れば、神の命に背くことになる」
すると、この計画を立てた人物が、大きな声で言いました。
「よく分かった。私たちは土曜に魚を釣らないことにしよう。だが、小川を分けて、魚たちが土曜に自由にそこを通ることができるようにしよう。そして、魚たちが海に戻ろうとするときに、その小川を塞いで、海に出て行く道を閉ざすのだ。そうすれば、私たちは日曜にそれらの魚を獲ることができる」
最初の男は、慎重に答えました。
「それは単なる欺瞞だ。それらの魚はきっと、その日に神の命によって私たちのもとにやって来るのだろう。それは私たちの信仰を試すためのものだ。かつて、神は命に従わなかった人々を滅ぼしたり、彼らに責め苦を与えたりしている。それはあなたたちも知っているだろう。何年も前に、ムーサーはイスラエルの民に、1週間のうち1日は、神への礼拝の日にあて、現世の行いや取り引きを休むようにと教えた。イスラエルの民は自分たちで、それを土曜にすることに決めたのだ。そのときからいままで、土曜は私たちにとって大切な日だ。誰も現世の行いをしないし、漁も休む。それなのに、この世で暮らす私たちが、現世でのより多くの富を求め、多くの魚を釣るために、この休日の掟を破るのか。私はあなたたちのその計画には反対する。そしてあなたたちとは別れる。でも、その前に言っておこう。神の命に背くのはやめた方がいい」
彼の友人たちは、彼の言葉を無視して言いました。
「ムーサーの時代から、もう長い月日が経っている。今は預言者ダーヴードの時代だ。それに私たちのこの計画なら、土曜は神に礼拝を捧げて過ごすのであって、漁を行うわけではない」
イスラエルの民の長老の一人が、教友たちと共に、海岸にやって来ました。そこに静かに座り、美しい波を見つめていました。彼は、時が経つに連れて、法を犯す人々が、自分の行いに満足し、ますます神の命に背いていくのを目にしていることに、心を痛めていました。彼は教友たちと話をした後、立ち上がり、もう何度目になるか分からないまま、神の命に背く人々のもとに行き、言いました。
「悪魔は非常に簡単に、人間を欺くことができます。私たちは、あなたたちに忠告します。そのような欺瞞をやめなさい」
彼の忠告を聞いていた数人が前に出て言いました。
「神から滅ぼされるか、厳しい責め苦を与えられるかの人々に対して、何のために忠告するのか? あなたは沈黙を守り、私たちのように、自分のすべきことをしていればいい」
すると、長老は答えました。
「私たちの忠告は、神への謝罪である。それは彼らが敬虔な人間になることを望むがゆえのものだ」
コーラン第*章アル・アアラーフ章高壁、第165節と166節には、この物語の結末が、次のように述べられています。
「彼らが、以前に下されていた訓戒を忘れたとき、我々は悪を否定する人々を救い、圧制を行っていた人々には、その背きを理由に、厳しい責め苦を下した。彼らが、禁じられた事柄に背いたとき、我々は彼らに言った。『猿の姿になり、排斥されよ』」
敬虔な人々は、神の慈悲に授かったため、神に感謝を捧げ、道に迷った人々を導くための自分の努力に満足していました。というのも、この責め苦が下った際、沈黙を守っていた人も、また無関心でいた人も皆、罪を犯した人々とともに、懲罰を受けたからです。