ナスィーロッディーン・トゥースィー(1)
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ナスィーロッディーン・トゥースィー
13世紀のイランの偉大な学者、ナスィーロッディーン・トゥースィーは西暦1201年(イスラム暦597年)に、イラン北東部の町トゥースで生まれました。彼の名前や称号、出生年月日、出生地、父親の名前などで、見解の対立は存在せず、彼自身も自分の出生地をトゥースとしています。これについて、ハムドッラー・モストウフィーなどの一部の歴史家は、次のように記しています。「彼の出自はテヘラン南方の聖地ゴム近郊のヴァルシャーという村で、当時はテヘラン南方のサーヴェの一部だった。しかし、彼の先祖がトゥースに赴き、彼自身もそこで出生したことから、トゥース出身として有名である」。
トゥースィーの父、ムハンマド・ブン・ハサンは、トゥースのイスラム法学者で、ハディース学者でした。トゥースィーは、学者であるこうした父の元で、初歩的な学問、コーラン学、イスラム法学、イスラム原理を、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下で伝承学を学び、それからさらに論理学や哲学の基本を習得し、自然学と神学を修めました。こうした中で、彼は計算、幾何学、代数学、音楽を注意深く学習しました。そして少年期、さらに学問を修めるため、イラン北東部のネイシャーブールを訪れました。トゥースィーは、学問に対して非常に興味を持っており、若い頃から数学、天文学、哲学の分野で頭角を現し、当時の有名な学者の1人となりました。このため、トゥースィーはイラン・イスラム史においてもっとも有名で、影響力のある学者とされているのです。
ネイシャーブールの町は当時、イラン北東部・ホラーサーン地方の4つの大きな町のひとつで、数百年に渡りイスラム世界の重要な学問の中心地とみなされていました。トゥースィーは、この町にしばらく滞在し、多くの学者からたくさんの教えを受け、様々な学問に精通するようになりました。トゥースィーがイスラム世界の優れた学者となったのは、数学、天文学、神学、イスラム法学、神秘主義哲学、論理学、哲学から、詩や医学にいたるまでの広範囲の学問に精通していたためなのです。彼は若い頃、これら全ての学問を当時の学者から学び、全てに秀で、精通するようになりました。トゥースィーの恩師には、当時の哲学者だったファリードウッディーン・ダーマード・ネイシャーブーリー、イマーム・ファハル・ラーズィーの一番弟子で、当時ネイシャーブールに滞在していたハージェ・ゴトブッディーン・メスリーなどがいます。トゥースィーは、イブン・スィーナーの『医学典範』をゴトブッディーン・メスリーの下で学んだと見られています。
研究者のうちのあるグループはトゥースィーを「哲学の完成者」と呼んでおり、また一部の研究者は「11番目の賢人」と呼んでいます。トゥースィーの弟子で、偉大なイスラム法学者のアッラーメ・ヒッリーは、師であるトゥースィーについて、次のように記しています。「わが師ハージェは当時の偉大な学者であり、大変学問に精通していた。彼は、様々な学問に関する数多くの著作を残している。彼は私たちが知っている限り、もっとも高貴な人物である。私は、彼のもとでイブン・スィーナーの『治癒の書』などを読んだ。その直後に、彼は神の下に召され、彼の魂は聖なるものとなった」。
トゥースィーは人当たりや人柄もよく、忍耐強く、謙虚な人物でした。彼は文化の普及、偉人に対する賞賛、苦しみの中にある人の救済に心を砕き、イスラム教の普及とシーア派の拡大に大変な努力を行いました。トゥースィーがネイシャーブールで学業に励んでいるとき、ホラーサーン地方はモンゴル軍の侵入を受け、ホラーサーンの町は次々に破壊されました。このような状況の中で、イスマーイール派の城砦だけがモンゴル軍の侵攻に立ちはだかっていました。イスマーイール派の戦士の勇敢さや堅固な城砦により、イスマーイール派はモンゴルに対して、何年もの間抵抗することができたのです。
当時、イスマーイール派の王はアラーオッディーン・ムハンマドと言う人物でしたが、一方でホラーサーン地方のゴヘスターン(読み方OK)地域の司令官は、ナーセロッディーン・ムフタシャムでした。ナーセロッディーン・ムフタシャムは当時の有力者の一人と見なされており、学問の普及に貢献し、優れた人物や学者に特別な注目を寄せていました。彼は様々な学問におけるトゥースィーの名声を耳にしており、トゥースィーとの面会を希望したため、彼をゴヘスターンに呼び寄せたのです。ちょうどその時、トゥースィーもモンゴルの侵略と都市の破壊、そして人々の殺戮に遭遇しており、ナーセロッディーンの招待を受け入れるべきだと考えました。その後、トゥースィーはゴヘスターンに赴きました。ナーセロッディーン・ムフタシャムは彼を貴重な人物とみなし、彼を活用しました。まさにそのころ、トゥースィーは彼の依頼により、ミスカワイフ・ラーズィーの著作の概略をまとめてペルシャ語に翻訳し、一部加筆を行い、この著作にナーセロッディーンの名前を記しました。これは、『ナーセルの倫理書』と呼ばれています。トゥースィーは長期間、ナーセロッディーンの下に滞在し、多くの時間、書物を読み、本や注釈を執筆して過ごしました。彼は『ナーセルの倫理書』だけでなく、天文学に関する論文を執筆し、そのペルシャ語の説明を、ナーセロッディーンの息子、モイーノッディーンの名前を冠して著しました。彼はまた、『ナーセルの倫理書』の翻訳も手がけています。トゥースィーのものとされる、イブン・スィーナーの指摘に関する注釈の一部から、トゥースィーがイスマーイール派の城砦の中で苦労し、必要に迫られてやむなくここで過ごしており、実質的に幽閉状態で、大変困難な時期を過ごしてきたことが明らかにされています。トゥースィーは、長い間ナーセロッディーンの下に滞在した後、イスマーイール派のアラーオッディーンはトゥースィーの存在を知り、トゥースィーを自分の下に呼びました。このため、彼はやむなくナーセロッディーンとともにイラン北部のメイムーン城砦に赴き、アラーオッディーンに仕えました。この時期、トゥースィーは『引用と指摘の原則の説明』というタイトルの書物や、数学に関するその他の多くの著作を著しています。
この時代、イランの各都市は大変混乱していました。モンゴル族の征服者は人々に対して暴力を行使し、バグダッドを征服しアッバース朝を滅ぼして、イスマーイール派の城砦を平定しようと考えていました。このため、モンゴルのフラグ・ハンは12万の軍勢を率いて、アラブ世界の征服に赴きました。西暦1255年にあたるイスラム暦653年、フラグ・ハンは中央アジアの臆さす川をこえ、ますはじめにナーセロッディーンを降伏させ、その後イスマーイール派の城砦を次々に制圧し、メイムーン城という拠点に達しました。フラグ・ハンはイスマーイール派の王アラーオッディーンの息子、ルクノッディーンの下に使いを送り、彼に降伏を勧めました。このとき、トゥースィーはルクノッディーンに対して、フラグ・ハンに降伏するようすすめ、結果としてルクノッディーンは降伏ししています。フラグ・ハンは、信用ある医学者だったトゥースィーと彼の息子たちを、お供として自分に随行させました。なぜなら、彼らによってルクノッディーンが降伏し、殺戮が未然に防がれたからです。
フラグ・ハンは冷酷で、殺戮を行っていながら、学術を奨励し、学問を好み、錬金術や占星術、天文学を好んでいたと言われています。彼はイスマーイール派の統治を終わらせるとき、トゥースィーを自分のもとに引き止めていました。トゥースィーはほとんどの学問、とりわけ数学や天文学に精通し、ほかの学者よりも優れていたため、フラグ・ハンに対して大きな影響力を持ち、フラグは重要な問題に関してはトゥースィーに相談し、彼を宰相に選びました。アメリカの歴史家ジョージ・サートゥーン氏は、歴史学の本の中で次のように記しています。「トゥースィーは、占星術に関する自らの知識により、フラグハンに対して大きな影響力を持つようになった。フラグは、自分の占星術師であるトゥースィーに相談せずに政務を執り行おうとする大胆さはなかったのである」。
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