ナカタ・カオリさん
「イスラム教徒のモスクの精神性にあふれる魅力が私を魅了し、私は一歩一歩、歩み出し始めました。ある声が私の耳に響き、『あなたはもうじき真理を理解できるだろう』という吉報を与えていると感じたのです」
これはナカタ・カオリさんが語った言葉であり、彼女は人生の紆余曲折を経た後、自分にとって予測することができない真理に到達しました。
それ以前は、ナカタさんは人生の中で、神について真剣に考えることはなく、また神について考える必要性も感じていませんでした。彼女は次のように語っています。
「私の人生は、全てうまくいっていました。私は幸運だと感じていましたし、神が必要だとは考えてもいませんでした。しかし、私は突然、『自分にとって人生は同じことの繰り返しで意味がない』と考えるようになりました。私は、むなしさのようなものを感じるようになり、人生におけるあらゆるものが、私にとって意味のないものとなったのです。私は、このときから真理を見出すことに努めました。学生時代、様々な宗教の勧誘活動を行なう人が何度も私の自宅を訪れました。このときあるキリスト教の勧誘を行なう女性が足繁く私の家を訪問し、私に聖書の教えについて説きました。私は熱心にその教えを学びましたが、私が求めていたものは得られなかったのです」
ナカタさんはまた、次のように続けています。
「その後、仏教を体験しようと決めました。私が暮らしていた京都は、歴史的な遺跡や多くのお寺があります。自宅近くにもお寺がありましたが、毎朝その寺にいって座禅していました。これを3ヶ月間、1日も欠かさず続けました。これは真理を追求する為に行っていたのです。座禅の際に精神を統一することは困難でしたが、楽しいことでもありました。しかし、残念ながらその後、私は自分の心の中の世界と、現実としての外的な世界の間に深い溝が生じてきたことに気づいたのです。私は軟弱で、無気力な状態に陥ってしまいました。私は、情熱溢れる人生を歩みつづけ、同時に精神的、神秘主義的なものも体験したいと考えていたのですが、残念ながら私の努力は結果には至りませんでした」
その後ナカタさんは、人生の道を変えようと決めました。こうして、彼女は留学の為、日本からフランスに渡りますが、そこで彼女にとって重大な出来事が起こります。これについて、ナカタさんは次のように語っています。
「フランスで、私にとってある興味深い出来事が起こりました。それは、あるイスラム教徒と知り合ったことです。その人は自分の宗教に特別な愛着を持っていて、常に自信を持って力強く、イスラム教について語っていました。私は常に、その人の精神力が羨ましくてたまりませんでした。なぜなら私は長年、精神の落ち着きや安らぎを求めていましたが、その人はまさにその安らぎを持っていたからです。私が数年間勉強した挙句に、精神的な安らぎを得ることに失望した一方で、その人は悠々と、そして全身全霊を挙げて自分の宗教を愛し、同時に安らぎの精神も得ていました。このため、私はイスラムについて調べ、信徒にこのような精神を与えるこの宗教が、どのような宗教であるのかを知ろうと思ったのです。このときまで、私は様々な宗教に興味を持っていましたが、イスラム教に憧れたことは一度もありませんでした」
とにかく、友人であるイスラム教徒の振る舞いにより、ナカタさんにはイスラム教について勉強しようという強い意欲が芽生えることになります。このため、彼女ははじめ、コーランのフランス語訳を手に入れ、それを読みました。ナカタさんはこの天啓の書を読んで、この本を読むためには誰かに助けてもらわなければならないと感じました。そこで彼女には突然、ある考えが浮かび、イスラム教徒の信仰の場であるモスクに行こうと決心しました。彼女はこれについて、次のように語っています。
「最終的に、私はある日モスクに行きました。そこの環境は私にとって未知の世界でしたが、驚くべき安らぎを感じたのです。モスクの雰囲気は、独特の精神的な雰囲気に満ちており、その静けさは、心にしみるものでした。モスクの精神性あふれる魅力は私をその方向へと引き寄せ、私はゆっくりとそちらのほうに進みました。あたかも、私の耳にあるお告げの声が響き、自分が近い将来真理を理解するだろうという吉報をもたらしてくれたと感じたのです」
また、ナカタさんは続けて次のように語っています。
「こうした折、モスクの中庭で、ある小さな本屋さんを見かけました。私はそこに近づき、店員さんに『イスラム教を私に説明してくれる人を探しているのですが』と言いました。すると、その人は私をモスクの図書館まで案内してくれました。私がそこに足を運んでみると、イスラム教徒の女性のための勉強会が開かれていて、ちょうどそれが終わったところでした。私は、イスラム教的な装いであるヘジャーブを着用した女性を初めて目にしました。彼女たちは私の求めているものを知り、私を温かく歓迎してくれました。イスラム教徒の女性は大変活発で、はつらつとしており、喜びに溢れていました。彼女たちの案内により、私はフランス・パリで開かれていた集まりの場に何度か参加しました。イスラム教徒たちの集まりに参加したことで、私に少しずつ精神的な変化が起こりました。一方で、数多くの書籍を読んだことからイスラム教に関する私の見方が変わり、この宗教は押し付けや強制のない宗教だと思ったのです。イスラム教は、非常に論理的で理性的な生き方を持っています。一部の宗教は、人生における快楽や物質的なものを全面的に否定し、来世での人生にのみ希望を託しています。しかし、イスラム教はそのような宗教ではなく、この宗教では肉体と精神のつながりが存在しており、人間のこの2面的な必要性を考慮しているのです」
ナカタさんはイスラムについて勉強を重ねた後、価値ある真理を理解しました。彼女は、これについて次のように語っています。
「イスラム教とは、つまり神に服従することであり、イスラム教においては全ての人間の価値は、信仰心と行動、すなわちよい行ないによって決まります。キリスト教を追求していたときは、私には原罪、つまり罪びととして生まれるということの意味が、理性の点からも、精神の点からも理解できていませんでした。しかし、イスラム教は全ての人間は罪のない、清らかな本質を持って生まれ、ただ自分が行なう罪のみに責任を持つとしています。私が思うに、これは完全に論理的なものです。イスラム教は単純明快な宗教であり、複雑な理論は存在しません」
ナカタさんはイスラム教徒に囲まれ、安らぎや喜びを感じています。彼女は、自分を導いてくれた同じイスラム教徒の女性たちとも連絡を取り続け、イスラム教の慣習に親しむことになります。彼女はこれについて、次のように語っています。
「私は彼女たちと共にモスクに行き、彼女たちの行動を興味深く観察していました。しばしば、礼拝ということを意識せずに、ただ彼女らに対して敬意を払って礼拝の場に加わっていました。私は、多くのイスラム教徒による講演会に参加し続けていました。集まりの場で聞いた演説や書籍で読んだ内容は、渇いた土にすぐしみこむ水のように、私の中に浸透し、私の心の深い部分に影響を及ぼしました。私は、精神的な喜びに到達したのです。長年自分が追い求めていた真理を見出したことを、少しずつ受け入れていきましたが、それを得るのに私は多くの努力をしたのです。イスラム教を知れば知るほど、以前と比べてよりそれを受け入れる用意ができていると感じ、ついには神の唯一性とムハンマドが神の預言者であることに対する信仰を告白しました」
ナカタさんに影響を与えた事柄のひとつは、礼拝です。彼女は礼拝を、信仰心を強める為の行為とみなしています。ナカタさんは、イスラム教に改宗後初めて礼拝をした時のことについて、次のように語っていました。
「初めてひざまづき、自分の額を地面につけて、慈愛あふれる唯一神への感謝を表した際、私の頭を地面から上げることができないほど、特別なものを感じました。礼拝の際にひざまづく時はいつでも、神の存在をより強く感じ、信仰の本当の意味が分かるのです。これは決して他の宗教に近づくことでは体験できなかった、精神的に大変美しい経験です」
ナカタさんは、その後しばらく経ってから、アラビア語をより完全にマスターし、イスラム学についてより多くを知るためにエジプトを訪れました。彼女はアラビア語に触れたことで、コーランの思想をよりよく理解するようになります。彼女は最後に、コーランについて次のように語ってくれました。
「アラビア語がある程度分かるようになった現在、私はコーランの美しさに惹かれています。この天啓の書の内容もさることながら、その響きが非常に美しいのです。たとえそれを何度読んでも疲れないどころか、私の心は幸せに包まれます。私は、自分にこの大きな幸せが与えられたことを神に感謝し、イスラム教を日本の人々に紹介しようと思っています。私は、日本の人々が唯一の神を認識することで得られる幸せに到達することを望んでおり、また神にすがることで全てがうまくいくと確信しています」
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