ナーセル・ホスロー(3)
ナーセル・ホスローは、シーア派の一派であるイスマイール派への傾向を見せていたことから、多くの敵や反対者を持つようになり、この敵意により、彼は困難な生活を送るようになりました。彼は敵意や恨みから遠ざかり、安らぎを得るため、現在のタジキスタンに当たるバダフシャーン渓谷に移りました。彼の作品の多くは、この土地に滞在していた15年間に記されています。これらの中で、後世まで残された貴重な作品として、『旅行記』があります。
ナーセル・ホスローの『旅行記』は、西暦の11世紀における最も重要な書物のひとつとみなされています。それは、作者であるナーセル・ホスローがまさにこの時代に生きていて、数多くの出来事を目撃したからなのです。一方、当時の社会的状況が、真実を語るナーセル・ホスローのような賢者にとって、それほど好ましいものではなかったことを忘れてはなりません。そのため、彼はセルジューク朝時代の思想や社会の破滅的な状況など、当時の多くの現実を安易に著作に記すことができなかったのです。
このため、ナーセル・ホスローの旅行記では、しばしば、当時の社会状況からして、ある問題に関してはそれほど詳しく述べていない、という事例が見られます。例えば、彼は旅行記の本文中で当時イランのホラーサーン地方の町であったマルヴの町についてはあまり詳しく触れておらず、すぐに次の話題に移っています。それは当時の社会状況を理由に、彼がこの町の話題について語ろうとしなかったことによるものです。しかし、その代わりに現在のイラン北部・ギーラーン州に当たるデイラミスターンでは、この地を支配していたアラヴィー朝政権の支配者について紹介しており、このことはアラヴィー朝に対するナーセル・ホスローの傾倒を示しています。このような点は、エジプトやカイロなどの記述にも見られ、そのそれぞれが、いわば彼の目的の一部を物語っています。もっとも、それはこの作家の特別な細やかさにより詳しく述べられています。
ナーセル・ホスローの旅行記の、地理学に関する価値ある記述においても、自身の目で見た町やほかの土地に関する記述は、当時から現存するすべての本の中でも、ほかに類を見ないといえます。彼は1000年前に立てられた町や遺跡について、非常に正確に記述しており、今日それらの記述から完全なサンプルが作れるほどです。カイロや、メッカのカアバ神殿の近辺の山の一部であるサファーとマルワの丘、ザムザムの泉、ベイトルモガッダス=エルサレムなどは、特にこうした完全な形で記述されています。
ナーセル・ホスローは、赴いた場所や都市について、まずはじめに、その土地の気候、山々、砂漠、川や湖など、その地理的に特別な条件について指摘しています。彼はその後、それぞれの町や村どうしの距離について説明し、それから門や城砦、塔などの堅固な建物について記述しています。彼はまた、モスクや宗教的偉人の廟、市場についても描いています。さらに、すべての土地の繁栄や肥沃さ、飢饉や、その土地の農業についても述べており、一部では地震などの自然災害にも触れています。
ナーセル・ホスローの『旅行記』は、7年間の旅行について記されています。この旅は西暦1045年12月25日にあたる、イスラム暦437年ジョマーディーオッサーニー月6日にマルヴを出発することで始まり、西暦1052年10月に当たる、イスラム暦444年ジョマーディーオッサーニー月に、現在のアフガニスタン・バルフへの到着をもって終了しました。この7年間の、およそ1万5000キロにあたる3,000ファルサングの旅は、ナーセル・ホスローにとって思想を発展させるものであり、また私たちにとっては彼が日々見聞きしてきたものから得られた、非常に価値のあるものといえます。彼の記述は大変に明確で、正確であり、誇張はなく、彼はこれらの記述を旅から帰った後に記し、本という形にしたためました。この『旅行記』を読むことで、西暦の11世紀中ごろにあたるイスラム暦5世紀前半のイスラム世界や、イスラム都市の繁栄と人々の文化や習慣を知ることができます。
ナーセル・ホスローが通過した土地は、セルジューク朝の影響下にあり、一部は地元の政権によって統治されていました。エジプト、シリア、アラビア半島のヒジャーズ地方もファーティマ朝の統治下にありました。彼はすべての場所における繁栄と衰退を等しく述べており、治安や安定を確立している場所を賞賛し、同時にイラン南部ファールス地方の街道の情勢不安やメッカ・メディナ間のアブ人の衝突については、不満を語っています。
ナーセル・ホスローは、見聞きしたものをすばらしい形で再び語っており、それは言葉という絵の具によって描かれた絵画のようなものです。彼の『旅行記』の、地理的な場所について語られているすべての部分は、芸術家としての写真家によってあたかもその場所から撮影された写真のように、見事に表現されています。それではここで、その例としてイラン中部の都市、イスファハーンに関して述べられている部分をご紹介しましょう。
「この町は草原にあり、気候的に良好で、いたるところに10メートルほどの深さを持つ井戸があり、冷たく良好な水が出る。この町には堅固な城壁があり、いたるところに城門が設けられている。町には、複数の小川が流れ、高さのある壮麗な建物がある。そして街中には、大きなジャーメ・モスクがあり、町の城壁の長さは、3.5ファルサング(18キロほど)といわれている。市内は大変繁栄しており、壊れたところは見当たらない。バザールは大変大きく、そこには両替商が200人もいた。また、クータラーズと呼ばれる路地には、キャラバンサライと呼ばれる、質の良い50の隊商宿があり、それぞれには店や役所を構える人々が沢山存在していた。私たちが一緒になったこの旅商人の一行は、4トン弱の荷物を有していたが、困難には遭遇しなかった」。
ナーセル・ホスローの記述からは、農業の状況、農作物の種類、灌漑の方法、産業、学者、偉人、都市の運営方法、商業関係、人々の信仰や慣習、歴史的に重要な出来事、当時のイスラム世界とそこにすむ人々について理解することができます。
ナーセル・ホスローの旅行記の内容の深さから、研究者は、イスラム世界の都市の機能など、さまざまな分野に関する価値ある情報を手にすることができます。たとえば、ナーセル・ホスローは現在のイラク南部、バスラの両替商と現地の人々の取引方法について、次のように記しています。両替商は、当時の銀行業といわれています。
「バスラのバザールの状況は、商品を両替商に預け、両替商から領収書を受け取り、それを買う必要がある場合、その代金を両替商に預けるというようなものだった。この町にいる限り、両替商なしには何もできない」
ナーセル・ホスローは旅行した土地のさまざまな土地で、カナートや貯水施設、井戸車などを見ており、エジプトの井戸車について、次のように語っています。「周辺からエジプトの都市を見ると、山のようであり、15階建て以上の高層建築や、7階建ての建物の家々が立ち並んでいる。ある人物はその7階建ての建物の屋上に庭園を造り、子牛をそこに移動し、大きくなるまで育てている。牛が大きくなると、井戸車を回転させて、水をくみ上げる作業をさせていた。またその屋上にかんきつ類やバナナ、そのほかの木を植えたが、いずれも実がなり、さらにあらゆる種類の花が育てられていた。
ナーセル・ホスローの『旅行記』の手稿は2部存在し、いずれもフランスに保管されています。1881年、フランスの東洋学者シェフェールがこれを翻訳・出版し、その後インド・ボンベイでこの書籍が石版印刷されました。さらに、テヘランで、1894年から95年あたるイスラム暦1312年、ゼイノルアベディーン・サファヴィーという人物の尽力により、彼の詩集とともに、旅行記が石版印刷され、その年にまた別の版が、この人物により市場に出回りました。5版目は1922年に、ガニーザーデという人物により、ドイツ・ベルリンのカヴィアニ出版社から出版されました。しかしもっとも有名なものは、1955年から56年にかけての、イラン暦1335年に出版されたダビールスィヤーギー博士による版だと思われます。
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