4月 06, 2020 18:50 Asia/Tokyo

コーラン第32章サジダ章叩頭(こうとう) 第20節~第25節

                                                                慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第20節

「だが、命令に背いた人々、彼らの居場所は業火である。彼らはそこから出ようとするたびに、再びそこに戻され、このように言われる。『あなた方が常に否定してきた業火の責め苦を味わうがよい』と。」(32:20)

(20)وَأَمَّا الَّذِینَ فَسَقُوا فَمَأْوَاهُمُ النَّارُ کُلَّمَا أَرَادُوا أَنْ یَخْرُجُوا مِنْهَا أُعِیدُوا فِیهَا وَقِیلَ لَهُمْ ذُوقُوا عَذَابَ النَّارِ الَّذِی کُنْتُمْ بِهِ تُکَذِّبُونَ 

 

第21節

明らかに、より大きな[最後の審判の]責め苦以外にも、[現世で]近い責め苦を彼らに味わわせる。恐らく彼らは立ち返るだろう」(32:21)

(21)وَلَنُذِیقَنَّهُمْ مِنَ الْعَذَابِ الأدْنَى دُونَ الْعَذَابِ الأکْبَرِ لَعَلَّهُمْ یَرْجِعُونَ

 

前回の番組でお話したように、神は、「敬虔な人間と不信心者は、私にとって同じではない。敬虔な人間は、その行いのために天国に入る権利があり、そこを住処とする」と語っていました。

今回の第20節と21節は次のように語っています。「だが、信仰を主張しながら、行動においては神の命に従わず、常にそれに背く人々、彼らは地獄に落ち、そこを逃げ出す道はない」

とはいえ、彼らは現世でもさまざまな形で懲罰を受けることにより、罪を悔い改め、醜い行いをやめ、来世の責め苦が下らないようにするための猶予を与えられます。しかし、最後の審判では罪を悔い改める道は閉ざされ、引き返す道はありません。

言い伝えによれば、人間が現世で直面する一部の災難や病気、苦難は、人間を戒め、罪や神に反する行いをやめさせるための、神からの一種の懲罰や警告だとされています。

 

第20節~21節の教え

  • 時に人間は、深い堕落や腐敗に取り囲まれ、最後の審判を受け入れず、それを否定してしまいます。
  • 神の懲罰は最後の審判に限られません。現世でも、神は一部の人間に懲罰を下します。このこと自体、罪を犯す人間がそれを悔い改め、正しい道へと立ち返るための神の恩恵です。
  • 神の怒りも、人間を教育するためのものであり、神の慈悲からくるものです。

 

第22節 

「また、主の節によって忠告を受けながら、それから顔をそむける人以上の圧制者がいるだろうか?明らかに、我々は罪を犯す者に報復する」(32:22)

(22)وَمَنْ أَظْلَمُ مِمَّنْ ذُکِّرَ بِآیَاتِ رَبِّهِ ثُمَّ أَعْرَضَ عَنْهَا إِنَّا مِنَ الْمُجْرِمِینَ مُنْتَقِمُونَ 

 

この節で、神は真理を知りながら、神の節や命令に背き、神の節を否定しようとする人々を圧制者と呼び、懲罰に値するとしています。コーランでは、自分自身に圧制を行い、不信心に陥ることを、他人に対する圧制以上のものと見なしています。なぜなら、それこそが他人に対する圧制につながるからです。敬虔な人間は、いかなるときも、他者に圧制を加えたりはしません。しかし、真理を覆い隠し、不信心の道を進む人は、簡単に他人の権利を無視し、彼らに圧制を行うことができるのです。

 

第22節の教え

  • かたくなな心により、人間は忠告を与えられても、自分の間違った行いをやめるどころか、それを続け、さらなる罪の泥沼におちいります。
  • 罪を犯した人に接する際には、警告や忠告を与えた後で、厳しい対応を取ったり、懲罰を加えたりすることも必要です。
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第23節

「また、まことに我々はムーサ―に啓典を授けた。そこで、彼の[主との]対面[や神の節を受け取ること]を疑ってはならない。我々はそれをイスラエルの民の導きの源とした。」(32:23)

(23)وَلَقَدْ آتَیْنَا مُوسَى الْکِتَابَ فَلا تَکُنْ فِی مِرْیَةٍ مِنْ لِقَائِهِ وَجَعَلْنَاهُ هُدًى لِبَنِی إِسْرَائِیلَ

 

第24節

「また、彼らの中から、我々の命に従って[人々を]導く指導者を据えた。なぜなら彼らは、[神の道において]耐え忍び、我々の節を固く信じたからだ。」(32:24)

(24) وَجَعَلْنَا مِنْهُمْ أَئِمَّةً یَهْدُونَ بِأَمْرِنَا لَمَّا صَبَرُوا وَکَانُوا بِآیَاتِنَا یُوقِنُونَ

第25節 

「まことに汝の主は、最後の審判で、彼らが対立していたことについて調停される」(32:25)

(25) إِنَّ رَبَّکَ هُوَ یَفْصِلُ بَیْنَهُمْ یَوْمَ الْقِیَامَةِ فِیمَا کَانُوا فِیهِ یَخْتَلِفُونَ 

 

これらの節は、まず、歴史の中で、神の預言者たちが任命され、啓典が下された出来事に触れ、次のように語っています。「明らかに、我々がムーサ―に啓典を与え、イスラエルの民を正しい道へと導き、彼らがフィルアウンの支配から解放されるようにした。この民のうち、一部の人はムーサ―に同調し、フィルアウンと闘う道を忍耐強く歩んだ。彼らは神の約束とユダヤ教の聖典を強く信じ、敵に打ち勝ち、社会の指導者となることができた。このような人々は、神の啓典と預言者たちの指示に従って社会を統治し、神の命を実行した」

 

信仰と忍耐により、統治の座についた真の敬虔な人々は、自分や人々の欲望に従わず、神の命に従い、自分の行いの基準を神の命に据えていました。彼らは神の命を自分の見解よりも優先させ、欲望ではなく、神の啓典と命令に従って統治を行っていたのです。

 

とはいえ、イスラエルの民も対立を抱えていました。それにより、彼らの間に亀裂が生まれていました。こうした対立の源は、真理から離れ、欲望に注目したことでした。そのため神は、警告のような調子で次のように語っています。「人々の宗教の分裂の原因となる、このような人々は、覚えておくがよい。彼らの行いは最後の審判で神によって清算される。神は正義に基づいて彼らに接するだろう」

 

第23節~25節の教え

  • 神の預言者たちの任命は、歴史の中に見られていました。これは、イスラムの預言者の以前にも、長い歴史を有しています。神の指導者たちについて、わずかな疑いも抱くべきではありません。
  • 神の道における忍耐と確信、信仰は、指導者に必要な条件です。社会の指導者として相応しい資格を持つようになるためには、目標を強く信じ、最後の段階まで抵抗しなければなりません。
  • 宗教の指導者たちは、人々の間に対立があっても、自分の行いや人々の導きにおいて希望を失ってはなりません。なぜなら、対立は常に存在していたからです。