10月 03, 2021 18:02 Asia/Tokyo

コーラン第34章サバア章サバア、第31節~第33節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

第31節

「また、不信心者となった人々は言った。『私たちはこのコーランにも、それ以前にあった書物にも、決して信仰を寄せないだろう』 もしこの圧制者たちが、神の御前に立たされている姿を見たら[、汝は驚いていただろう]。一部の人々は、別の人々と言い合[い、自分の罪を互いになすりつけあ]う。弱者は圧制者に言う。『あなた方がいなかったら、私たちはきっと敬虔な人間になっていた』と」

وَقَالَ الَّذِينَ كَفَرُوا لَنْ نُؤْمِنَ بِهَذَا الْقُرْآنِ وَلَا بِالَّذِي بَيْنَ يَدَيْهِ وَلَوْ تَرَى إِذِ الظَّالِمُونَ مَوْقُوفُونَ عِنْدَ رَبِّهِمْ يَرْجِعُ بَعْضُهُمْ إِلَى بَعْضٍ الْقَوْلَ يَقُولُ الَّذِينَ اسْتُضْعِفُوا لِلَّذِينَ اسْتَكْبَرُوا لَوْلَا أَنْتُمْ لَكُنَّا مُؤْمِنِينَ

 

敬虔な人間と不信心者の、最後の審判における地位について述べた前の節に続き、この節は次のように語っています。「不信心者は、天啓の書物が復活と唯一神の信仰について提起している事柄を否定し、それを受け入れようとはしない。実際、彼らは、頑なに真理を受け入れようとはせず、いくら呼んでも、あるいは揺り動かしても寝たふりをして起きようとはしない人と同じである」

この節は続けて、次のように語っています。「だが、現世で誤った頑なな考え方により、真理を踏みにじった否定者たちは、最後の審判で、自分たちの行動を正当化しようとする。そして、自分の罪を他人になすりつけようとする。そのため、同じように地獄に落ちることになる社会の指導者たちにこのように言う。『あなたたちが私たちを逸脱させた。あなたたちがいなければ、私たちは信仰を寄せ、今、懲罰を受けることはなかっただろう』」

 

第31節の教え

  • 真理を頑なに拒むことは、人間を否定と不信心に陥らせます。このような人間は、決して、信仰を寄せようとはしません。
  • すべての啓典の書は、同じ目的に向かっています。そのため、不信心者はそのいずれも受け入れることはありません。
  • 不信心や多神教信仰、無宗教は、自分や預言者たちに対する大きな圧制です。
  • 宗教では、自分に対する圧制も非難されています。
  • 最後の審判で、信仰は救済のための要素となります。

 

第32節

「[だが、]高慢な者たちは弱い立場の人々に向かって言う。『私たちが、あなた方のもとにやって来た導きから、あなた方を遠ざけたのか?いや、あなた方自身が罪を犯したのだ』 そして、弱い立場の人々は高慢な者たちに向かって言う。」

قَالَ الَّذِينَ اسْتَكْبَرُوا لِلَّذِينَ اسْتُضْعِفُوا أَنَحْنُ صَدَدْنَاكُمْ عَنِ الْهُدَى بَعْدَ إِذْ جَاءَكُمْ بَلْ كُنْتُمْ مُجْرِمِينَ

 

第33節 

وَقَالَ الَّذِينَ اسْتُضْعِفُوا لِلَّذِينَ اسْتَكْبَرُوا بَلْ مَكْرُ اللَّيْلِ وَالنَّهَارِ إِذْ تَأْمُرُونَنَا أَنْ نَكْفُرَ بِاللَّهِ وَنَجْعَلَ لَهُ أَنْدَادًا وَأَسَرُّوا النَّدَامَةَ لَمَّا رَأَوُا الْعَذَابَ وَجَعَلْنَا الْأَغْلَالَ فِي أَعْنَاقِ الَّذِينَ كَفَرُوا هَلْ يُجْزَوْنَ إِلَّا مَا كَانُوا يَعْمَلُونَ

 

「『いや、[あなた方が]昼夜に企てた陰謀のためだった。あなた方は私たちに神を信じず、神と同等のものを据えるように私たちに命じた』 彼らは責め苦がきたとき、自分の後悔の気持ちを隠す。我々は、不信心に走った者たちの首に枷をかける。彼らが行ったこと以外のものが、彼らに与えられるだろうか?」

 

この2つの節では、高慢な者と弱い立場にある者、という単語が何度か出てきます。“弱い立場の人々”とは、目と耳をふさぎ、他の人々に従うだけで、自分の考えや理性を用いない人々のことを指しているようです。また、“高慢な者”とは、富や権力を悪用し、他の人々を支配しようとする人を指しています。

 

高慢な人々は、人々を強制的に自分に従わせるのではありません。彼らは、文化的な手段や宣伝などのさまざまな計画により、自分たちの多神教的な考え方を広め、人々が預言者と天啓の書の教えを捨て、高慢な人々の華やかな宣伝に従うように仕向けます。高慢な人々が宣伝や計画の中で示す事柄は、多くの人の欲望に沿ったものです。なぜなら、高慢な人々に従えば、自分の目や耳、口をコントロールする必要がなくなるからです。

 

この2つの節が、最後の審判の日の、この2つのグループの間の会話によって示そうとしている事柄は、富や権力の持ち主が陰謀を企てたからといって、それは責任を逃れるための十分な言い訳にはならない、ということです。人間は、どれほど知識や情報を持っていようとも、欲望に従うのではなく、神から与えられた清らかな本能と理性に従うべきです。とはいえ、高慢な人々も、人々の逸脱に関わった分だけ、懲罰を受けます。しかしながら、弱い立場の人々は、彼らの欺瞞や陰謀によって、自分の罪を正当化することはできず、その責任を逃れることはできないのです。

 

第32節と33節の教え

  • 堕落した社会は、人間に大きな悪影響を及ぼしますが、彼らに堕落や逸脱を強制するわけではありません。そのため、自分の罪や過ちを社会のせいにすることはできません。
  • 最後の審判では、自分の罪を他人になすりつけることはできません。言い換えれば、誰も、他人の罪を背負うことはないのです。
  • 誰でも、預言者と啓典の教えを知りながら、それを受け入れない人は、最後の審判でその責任を取る必要があります。
  • 富や権力を持つ高慢な人々は、自分の考え方を人々の間に広め、彼らを自分の支配下に置くための努力を怠りません。彼らはそのようなやり方によって、人々を神の道から遠ざけようとします。
  • 逸脱した人間は、他の人々も逸脱させようとします。そして彼らを悪から遠ざけるどころか、誤った醜い行いへといざないます。これにより、社会を自分に同調させようとするのです。