光の彼方への旅立ち、サバア章 (9)
コーラン第34章サバア章サバア、第34節~第37節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第34節
「また、我々はすべての土地に警告者を遣わした。だが、彼らの裕福な人々は、『私たちはあなた方が遣わされたことについて信じない』と言った。また彼らは言った。」
وَمَا أَرْسَلْنَا فِي قَرْيَةٍ مِنْ نَذِيرٍ إِلَّا قَالَ مُتْرَفُوهَا إِنَّا بِمَا أُرْسِلْتُمْ بِهِ كَافِرُونَ
第35節
「『私たちの財産や子孫はあなた方よりも多いのだから、私たちは責め苦を受けないでしょう』」
وَقَالُوا نَحْنُ أَكْثَرُ أَمْوَالًا وَأَوْلَادًا وَمَا نَحْنُ بِمُعَذَّبِينَ
前回の番組では、最後の審判での高慢な人々と弱い立場の人々の会話についてお話しました。それに続き、この2つの節は次のように語っています。「神の恩恵に酔いしれ、放蕩にふけっていた高慢な人々は、自分たちが他の人々よりも優れ、そのしるしに財産や名声を持っていると考えている。彼らは神の預言者の言葉に耳を傾けなかった。なぜなら、預言者の周りに集まるのは大抵、恵まれない人々や弱者だったからであり、裕福な人々は、社会の弱者と同じグループに入ることをよしとはしていなかったからだ。彼らははっきりと、“自分たちは預言者やその啓典に信仰を寄せない”と言い、“たとえ最後の審判があったとしても、自分たちに神からの責め苦がくだることはない。なぜなら自分たちは神から愛されており、だからこそ、多くの財産や子孫を与えられたのだ”と主張している」
第34節と35節の教え
- 人間は時に、富と権力に酔いしれ、何の根拠もなく、神の預言者たちの教えを否定し、真理の言葉に耳を傾けようとしなくなります。
- 現世で手にしているものは、神に近いことのしるしではありません。恩恵を有することは、人間にとって責任を生じさせます。
- 裕福な生活が、高慢さにつながってしまえば、人間は真理を頑なに拒むことになります。
- 現世での恵まれた生活は、来世での安楽を意味しません。現世で放蕩にふけっている多くの人が、来世では責め苦を下されます。
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第36節
「言え、『私の主は、お望みの者に対し、日々の糧を広げたり、または狭めたりする。だが人々の多くはそれを知らない』」
قُلْ إِنَّ رَبِّي يَبْسُطُ الرِّزْقَ لِمَنْ يَشَاءُ وَيَقْدِرُ وَلَكِنَّ أَكْثَرَ النَّاسِ لَا يَعْلَمُونَ
「高慢な人間は、現世での裕福な生活を、神の加護や来世での安楽のしるしと考えている」とした前の節に続き、この節は次のように語っています。「日々の糧を広げたり、減らしたりするのは、神の愛情や怒りのしるしではない。誰でも富をより多く持っている者が神の愛情を多く受け、富の少ない者には神の怒りが下されている、ということではない。この日々の糧における違いは、神の英知によるものであり、神の恩恵、あるいは怒りとは何の関係もない。とはいえ、多くの人は、そのことに注目せず、自分の考えや憶測だけで誤った判断を下している」
第36節の教え
- 恩恵が与えられたり、奪われたりするのは、神の英知に基づいたことであり、神の怒りや愛情を示すものではありません。
- 神の預言者たちの責務のひとつは、人々の誤った考えや憶測を改め、神に対して誤った考え方が持たれないようにすることです。例えば、恩恵の多さは、神からの愛情のしるしとは限りません。
- 財産や子孫は、自分で手に入れたものではなく、神から与えられたものだと考えましょう。日々の糧を手に入れるための労働などによって、私たちは神から日々の糧を与えられているということを忘れてはなりません。
第37節
「あなた方の財産や子孫は、あなた方を我々のもとに近づけるものではない。ただし、信仰を寄せ、相応しい行いをする人々は別である。彼らには、彼らが行ったことの倍の報奨があり、天国の住まいで平穏を得る」
وَمَا أَمْوَالُكُمْ وَلَا أَوْلَادُكُمْ بِالَّتِي تُقَرِّبُكُمْ عِنْدَنَا زُلْفَى إِلَّا مَنْ آمَنَ وَعَمِلَ صَالِحًا فَأُولَئِكَ لَهُمْ جَزَاءُ الضِّعْفِ بِمَا عَمِلُوا وَهُمْ فِي الْغُرُفَاتِ آمِنُونَ
コーラン第64章アッ・タガーブン章損得・後悔の第15節によれば、財産や子孫を含む、神の全ての恩恵は、神からの試練の手段だとされています。富や権力を持つ多くの人が、神の恩恵を最高の形で利用し、相応しい行いに努め、恵まれない人に施しをしています。このような人々は、来世で神の報奨を得ます。しかし反対に、多くの富に恵まれていながら、出し惜しみをする人は、現世でその富や財産によって苦しむことになり、来世でも責め苦を味わいます。
これに対し、困難な状況でも耐え忍び、罪を犯すことのなかった恵まれない人々は、来世でその忍耐の報奨を神から受け取ることになります。とはいえ、貧困や困難を、自分の誤った行動を正当化するための言い訳にし、人々の財産に対して好きなだけ手を伸ばそうとする人々もいます。
この節は続けて、神から愛されるための基準は、信仰と善い行いであるとし、次のように語っています。「人々の生活、家や財産に注目するのではなく、彼らの行いに注目すべきである。彼らの行いがよいもので、神の満足のために努めているのであれば、彼らは、裕福であろうが貧困にあえいでいようが幸福である。だが、不信心に走り、行いが醜いものであるなら、彼らが裕福であろうが貧困にあえいでいようが、現世でも来世でも幸福になることはないだろう」
第37節の教え
- 多くの人は、財産や子孫を幸福のしるしと考えます。しかし、神にとっては、信仰と善い行いが、人間の幸福や救済を決める要素となっています。
- 財産や子孫、さまざまな可能性を持っていることは重要ではありません。重要なのは、それらをどのように利用するかです。これらの可能性が正しい道に利用され、信仰や善い行いのために活用されるのであれば、それは人間の成長の手段となります。
- 神の懲罰は、その人の罪に即した形で下されます。しかし、神の報奨は、神の恩恵と慈悲に基づくもので、善い行いの何倍にも増やされます。