光の彼方への旅立ち、ファーテル章 (3)
コーラン第35章ファーテル章創造者、第7節~第8節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第7節
「不信心に走った人々、彼らには厳しい責め苦が待っている。また信仰を寄せ、ふさわしい行いをした人々、彼らには偉大なる報奨と赦しがあるだろう」
(7) الَّذِینَ کَفَرُوا لَهُمْ عَذَابٌ شَدِیدٌ وَالَّذِینَ آمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ لَهُمْ مَغْفِرَةٌ وَأَجْرٌ کَبِیرٌ
前回の番組では、悪魔の人間に対する敵対と、人間が悪魔の党に入ったときの、地獄に落ちる危険についてお話しました。この節は、次のように語っています。「不信心と真理の否定は、悪魔による人間の支配を容易にし、その人に厳しい結末をもたらすことになる。だが、もし人間が信仰を寄せ、よい行いをすれば、悪魔の誘惑に惑わされ、過ちを犯したとしても、神からその罪を赦され、神の慈悲と恩恵にさずかることができるだろう」
明らかに、行動の伴わない信仰は意味がなく、報奨がついてくることもありません。しかし、不信心に走ることはそれだけで、人間が天国から遠ざかることになります。なぜなら、誤った道を選べば、決して目的地に到達することはないからです。それはたとえ、最高の乗り物に乗っていたとしてもです。
第7節の教え
- 物事の先を見越し、結果を考えることは、人間の教育と幸福に効果的です。なぜなら、人間の問題は死によって終わるのではなく、賢明な人間は、未来のことを考えるからです。
- 人間の罪が赦されない限り、天国に入り、報奨を受け取る土台は整いません。罪という重荷を背負って、天国に入ることはありません。なぜなら天国は、穢れた人々の場所ではないからです。
第8節
「そこで、悪い行いを立派だと思い込まされ、それをよいものと見る人は、[現実をあるがままに捉える人と同じだろうか?] そう、神は誰でもお望みの者を迷わせ、誰でもお望みのものを導かれる。そこで、彼らのために悲しみ、心を痛めて精神をすり減らしてはならない。明らかに、神は彼らが行うことを知っておられる」
(8) أَفَمَنْ زُیِّنَ لَهُ سُوءُ عَمَلِهِ فَرَآهُ حَسَنًا فَإِنَّ اللَّهَ یُضِلُّ مَنْ یَشَاءُ وَیَهْدِی مَنْ یَشَاءُ فَلا تَذْهَبْ نَفْسُکَ عَلَیْهِمْ حَسَرَاتٍ إِنَّ اللَّهَ عَلِیمٌ بِمَا یَصْنَعُونَ
敬虔な人々と不信心者の2つのグループの結末について述べた前の節に続き、この節は次のように語っています。「不信心に走り、真理を否定する精神により、人間は醜い行いを美しいものと捉え、真理をありのままに理解できなくなる。また、自分を改めようとせず、忠告を聞き入れることもなくなる」
不信心者は神を受け入れていないため、すべてのものを自分の本能に従って判断します。当然のことながら、人間の本能は、一時的な欲望や満足を手に入れるためのものなので、一部の醜い行いが美しいものに見えます。一方で、敬虔な人々は自分の行いを神の命に従って判断し、本能的な欲望を退けるため、本能に惑わされることはありません。当然のことながら、本能に従い、不信心に走れば、人間は神の導きを受け入れることができず、道に迷うことになります。しかし、神への信仰は、神の導きを受けるための土台となり、人間を正しい道へといざなうのです。
この節は終わりに、預言者ムハンマドやすべてのイスラム教徒に対し、次のように勧告しています。「真理を受け入れないばかりか、真理の言葉を聞こうとさえしない人々に対して心を痛め、自分の精神をすり減らしてはならない。なぜなら、彼らの問題を処理するのは神であり、神は彼らが内に秘めることも、表に現すことも知っておられるからである」
歴史が証明しているように、神の預言者ムハンマドは、人々を導く道において非常に心を痛めていました。コーランは、預言者について次のように語っています。「彼は人々を導くことを切望し、敬虔な人々に対して慈悲深い」
このことから、この節が意味しているのは、人々が道に迷ったことに対して残念に思ってはらない、ということではなく、残念に思うあまりに努力するのを止めたり、希望を失ってはならないこと、私たちの導きが無意味だと考えてはならない、ということです。
第8節の教え
- 人間の本能によって生じる危険性の一つは、悪が飾られ、罪が正当化されることです。言い換えれば、人間はまず、罪を正当化し、それからその罪を行います。
- 善と悪は、啓示や理性の確かな基準によってはかられるべきであり、心の赴くままに判断すべきではありません。
- 神は、罪は迷いの原因になるとしています。その迷いや逸脱は、人間自身の行いによるものです。不信心者は、かたくなな心によって逸脱の道を歩み、その結果、さらに迷いに陥ります。
- 人々を導くためには必死になり、彼らが迷っていることを残念に思うべきですが、その気持ちが節度を越えるべきではありません。