生物・化学兵器拡散防止国際デー
(last modified Tue, 28 Jun 2022 19:35:00 GMT )
6月 29, 2022 04:35 Asia/Tokyo
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    生物・化学兵器拡散防止国際デー

1987年6月28日、イラクのサッダームフセイン政権が、イラン北西部のサルダシュトに対して化学爆弾を投下しました。

6月28日と29日は、イラン国民にとって忘れられない苦い思い出の日です。1987年、イラクのサッダームフセイン政権の戦闘機が、サルダシュトの4箇所を化学兵器で攻撃しました。これにより、数十人が即死、数千人が負傷しました。

 

化学爆弾が投下されてすぐに亡くなった人々は、それほど苦しむことはありませんでした。しかし、化学爆弾によって負傷した人々は、長い間、その影響に苦しんでいます。サルダシュトの8000人を超える住民が、化学爆弾による被害を受けました。彼らの多くは女性や子供であり、死ぬまで、化学兵器の影響に苦しんでいます。

 

イラクのサッダームフセイン政権が、8年に及ぶイラン攻撃で化学兵器を使用したのは1度だけではありません。サルダシュトに対して化学兵器が使用される前にも、彼らは何度も化学兵器を使用していました。

サルダシュトへの爆撃

 

8年に及んだイランイラク戦争の中で、化学兵器の影響により、兵士や民間人、合わせて数十万人が殉教、または負傷しました。負傷者の多くは、イラン・イラク戦争の終結から30年が経った今も、化学爆弾の後遺症に苦しんでいます。彼らの中には、すでに殉教してしまった人も多くいます。化学兵器の被害者の殉教が知らされない月はありません。

 

サッダームフセイン政権の化学兵器の使用に関して注目に値する点は、アメリカやヨーロッパ諸国の政策です。彼らは現在、シリア政府が化学兵器をしようしたと主張し、この国に対してミサイル攻撃を行っています。しかし、1980年代のサッダームフセイン政権によるイラン攻撃では、サッダーム政権に対して非難が行われたことはなく、この政権を非難する安保理決議の採択も阻止されました。

 

アメリカとそのヨーロッパの同盟国は、イラン・イラク戦争で、サッダームフセイン政権の化学兵器獲得への支援を惜しみませんでした。こうした支援やイラクの民間人に対する化学兵器使用の黙認により、サッダームフセインは、化学兵器の犠牲者の映像が発表されることを懸念せずに、繰り返し、化学兵器を使用することができたのです。

 

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サルダシュトに対する化学兵器の使用は、イラクがイランに対して化学兵器を使用することを、アメリカが黙認することによって行われました。その後、ハラブジャに対する化学兵器の攻撃で、5000人以上が死亡しました。サッダームフセイン政権によるハラブジャへの化学爆弾の投下は、アメリカが、イラクによる化学兵器の使用を非難する決議や声明を採択しようとする安保理理事国の多くの努力に対し、拒否権を行使した9か月後に行われました。

 

安保理での声明の採択を阻止したアメリカ政府は、2003年、サッダームフセイン政権による化学兵器の使用を、自分たちのイラク攻撃の理由として発表しました。サッダームフセイン政権が崩壊する6か月前の2002年10月7日、アメリカの当時のブッシュ大統領は、演説の中で、イラク攻撃を正当化し、次のように語りました。

 

「サッダームフセインは、イランとイラクの40を超える村に対する化学兵器の攻撃を指示した。この攻撃により、少なくとも2万人が死傷した」

 

アメリカ政府は、イラクのイランに対する戦争が続いていた際には、実際、イラクによる化学兵器の使用に反対しませんでした。フィナンシャルタイムズは、1983年2月23日、1980年のアメリカの軍事情報機関の報告として、イラクはイランのイスラム革命勝利前、すなわち1970年代半ばに、すでに積極的に化学兵器を手にしようとしていたとしています。

 

サルダシュトへの爆撃

 

 

1982年、イランは大規模な作戦の中で、イラク軍に大きなダメージを与え、戦略的な都市であるイラン南部のホッラムシャフルをイラク軍の占領から解放しました。この勝利により、政治的、軍事的な力のバランスが完全にイランの優勢に傾きました。この変化によって、世界のサッダームフセイン政権の支援国は、サッダーム政権の弱体化と崩壊を懸念するようになったのです。

 

ワシントンポストは、2013年9月4日の報告の中で、レーガン政権は、1983年から、バスラを占領するためのイランの努力を受け、この戦争でのイランの勝利を阻止しようとしたと伝えました。イラクを支援するというアメリカ政府の決定は、1983年11月26日のアメリカ国家安全保障政策の中に示されており、「あらゆる法的な措置を行使し、イランに対するイラクの敗北を防ぐべきだ」とされています。

 

ワシントンポストは、アメリカによるイラク攻撃の3か月前にあたる2002年12月30日の報告の中で、レーガン大統領とその後のブッシュ大統領による成功、つまり、イラクのサッダームフセイン政権への生物・化学物質の売却による成功を示す証拠があることを明らかにしています。

 

アメリカ政府とそのヨーロッパの同盟国による、イラクの化学兵器獲得への支援は、イラン・イラク戦争の中で、当時の安全保障理事会が、強制力のない声明を発表し、イラクによる化学兵器の使用を繰り返し非難する中で行われました。しかし、国連安保理は、アメリカなどの大国の拒否権の行使により、強制力のある決議を採択し、イラクの化学兵器の使用を非難することはできませんでした。

 

サルダシュト攻撃の前の最後の努力として、1986年3月21日、国連安保理は、イラクによるイラン軍への化学兵器の使用を非難する声明を採択しようとしましたが、これもアメリカの拒否権行使によって失敗に終わりました。安保理の10か国が賛成票を投じましたが、イギリス、フランス、オーストラリア、デンマークはこの採決に参加しませんでした。

 

サルダシュトの化学兵器使用による被害

 

 

イラクのサッダームフセイン政権による化学兵器の使用へのアメリカの支援と、サッダームフセイン政権の大量破壊兵器の獲得を理由にしたこの国への攻撃は、アメリカの国内外の政策におけるダブルスタンダードを示しています。彼らは、アメリカや世界の人々に、自分たちの偽りやダブルスタンダードが明らかになることを恐れていません。

 

アメリカによる、サッダームフセイン政権の化学兵器使用への黙認は、1991年の湾岸戦争の後に終わります。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの後、アメリカの影響力のある政治家らは、イラクの大量破壊兵器の保有とアルカイダとのつながりを口実にイラクへの攻撃を正当化しようとしました。

 

イラク攻撃の支持者は、同時多発テロの後、攻撃の下地作りを決定していました。