4月 13, 2024 14:32 Asia/Tokyo
  • シオニストらにより我が子を殺された父親(左側)
    シオニストらにより我が子を殺された父親(左側)

1948年のシオニスト政権イスラエル成立以来、同政権が犯していない犯罪を見つけるのは難しいでしょう。西側政府の支援とメディアの沈黙に助けられたイスラエルは、この75年の間、最悪の犯罪とテロ行為をパレスチナ民衆に対して行ってきました。1948年のデイル・ヤシーン事件はその1つです。

イスラエルが「建国」宣言をするおよそ1カ月前の1948年4月9日、聖地ベイトルモガッダス・エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村をシオニスト武装組織「イルグン」が襲撃し、250人以上(一説では350人以上)のパレスチナ人を虐殺しました。この時、イルグンを率いていたメンバーには、後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギンやイツハク・シャミルなどが含まれていました。

 

1948年のデイル・ヤシーン事件

 

デイル・ヤシーン村の歴史は、パレスチナがオスマン帝国領であった1517年にまでさかのぼります。1945年時点での村の人口はおよそ610人でした。1942年、村の住民は移住してきたユダヤ人らと相互不可侵の取り決めを交わしていました。また、デイル・ヤシーン村は1947年の国連パレスチナ分割決議で定められたイスラエル領の外にありました。

事件の生存者らの証言によると、イルグンによる襲撃は午前3時ごろに始まり、住民の抵抗に遭うとエルサレムにあったハガナー(現在のイスラエル軍の前身組織)に応援を要請しました。そして、重火器を用いて女性や子供などを大量に虐殺したのです。そして、村の家という家を爆破し、制圧しました。シオニストらによる犯罪はこれにとどまらず、住民を並べて銃殺したり、生きたまま車で引きずり回したりなど、凄惨を極めました。最後には、遺体を井戸に放り込んだうえで蓋をし、虐殺を隠蔽しました。

 

1948年のデイル・ヤシーン事件


後にハガナーが出した報告によると、イルグンのメンバーはこの襲撃で、デイル・ヤシーン村住民のお金や金、砂糖、ラジオといった所有物を略奪しました。また、女性や少女への性的暴行、妊婦の腹を裂く、遺体の切断などといった行為も報告されています。イルグンの行為はパレスチナ人が住む他の地域にも伝わり、彼らが大量に土地を離れる要因となりました。

あるイスラエル議会(クネセト)議員は事件後、ボディーガードを連れて村を訪れました。その際、武装した遺体は1つも見当たらなかったと証言しています。これは、住民との間で交戦があったとするイスラエル当局の嘘を暴くものです。

事件が明るみに出ると、赤十字国際委員会は事件の全容解明のため調査団を派遣します。調査団はそこで、切断された遺体や井戸に投げ込まれた遺体などを目撃することになります。

 

シオニストらによって子供を虐殺されたデイル・ヤシーン村の母親たち


事件に戦慄したパレスチナ人は大量移住を始め、一部はパレスチナの外にある近隣のアラブ諸国にまで避難しました。その規模は、80万人いたパレスチナ人が15万人にまで減ったほどだと言われています。デイル・ヤシーン事件の残虐さには、アルバート・アインシュタインやハンナ・アーレントといった欧米のユダヤ人も非難の声を上げました。その一方で、事件当時パレスチナを委任統治していた英国は、これといった反応を示さず、事件の調査のためユダヤ人1人を派遣しただけでした。

 

パレスチナ人の村を襲うシオニストら

 

デイル・ヤシーン村の虐殺を指揮したメナヘム・ベギンは事件直後、ユダヤ人が住む近くの村でこの出来事を祝い、虐殺の様子を妻や友人たちに誇らしげに語ったと言われています。ベギンはその後、現在の与党リクードを設立し、1977年には首相に就任します。

 

デイル・ヤシーン事件で両親を殺害されたパレスチナ人の少女


映画監督のサヘラ・ディルバス氏は、デイル・ヤシーン事件を扱った自身のドキュメンタリー作品で、パレスチナ人・ユダヤ人あわせて7人の目撃者にインタビューしています。映画では、パレスチナ人住民が避難する前の村の様子や赤十字による報告などが取り上げられています。

 

 


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