欧州の植民地主義:イタリアによるエチオピア人虐殺からイスラエルの大量殺戮への加担まで
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メローニ・イタリア首相(右)とネタニヤフ・イスラエル首相
イタリアの首相と他2人の閣僚が、パレスチナ・ガザ虐殺への共謀の疑いで告発されました。
イタリアのジョルジャ・メローニ首相は7日火曜、自身と同国の他2人の閣僚がシオニスト政権イスラエルによるガザでの大量虐殺に加担したとしてICC国際刑事裁判所に告発されたことを明らかにしています。メローニ首相は、自身がイタリアのアントニオ・タヤーニ外相、グイード・クロゼット国防相、同国の防衛大手レオナルドのロベルト・チンゴラーニ最高経営責任者(CEO)らとともに、大量虐殺に加担したとしてICCに告発された」と付け加えました。
【ParsToday国際】スウェーデンにあるSIPRIストックホルム国際平和研究所のデータによれば、イタリアは2020年から2024年にかけてイスラエル政権に「主要な通常兵器」を輸出した3カ国のうちの1つだとされています。SIPRIはまた「この期間にイタリアがイスラエル政権に送付した兵器の大半はヘリコプターと海軍兵器だった」と発表しました。イタリアは、米国主導の兵器プログラムに基づき、F-35戦闘機の部品生産にも関わっている数カ国のうちの1つです。
ガザ虐殺でのイスラエル政権とイタリアの共謀という問題は、世論の意識を歴史の別の側面へと惹きつけています。1935年10月の独裁者ムッソリーニの指揮によるイタリアのエチオピア侵攻は、当時ハイレ・セラシエが率いていたエチオピアに対するエミーリオ・デ・ボーノ指揮下のイタリア軍による侵攻から始まった西側諸国の植民地戦争の一つでした。
これは、イタリアによる2度目のエチオピア侵攻でした。1896年の最初の侵攻では、イタリア軍は強力な装備と強力な航空部隊を有していながら、弓矢で武装したエチオピア軍を打ち破ることはできず、撤退を余儀なくされています。約40年後、イタリアは正式な宣戦布告なしに再びエチオピアに侵攻し、占領して「イタリア領東アフリカ」を樹立させました。この侵攻は国際連盟によって表面上は非難されたものの、国際連盟はこの時に何の反応も示さず、イタリアに対する経済制裁さえも解除されています。
いずれにせよ、20世紀初頭のアディスアベバ(エチオピアの首都)占領はイタリア軍の大勝利として記録されましたが、当時の大半のエチオピア人が持っていた防衛手段は弓矢だけでした。エチオピア占領後、イタリア軍は防衛手段を持たない人々を残忍に虐殺しました。イギリスの歴史家イアン・キャンベルは著書『イタリアの国家的恥辱』の中で、1936年6月、イタリア軍がエチオピアの首都に入城した直後、イタリア軍の指導者が「捕らえた反乱者全員を射殺せよ」と命じたと記しています。殺害は、辺鄙な町や仮収容所に収容された囚人たちの間でも続きました。キャンベルによれば、エチオピア人にとって、正規の教育を受けたことや上流階級の出身であることを明かすことは致命的行為だったということです。
キャンベルの推計によれば、1937年2月19日から21日までの3日間で、アディスアベバでは約1万9000人の成人男女と子供が殺害されました。その内訳は銃殺や絞首刑によるもののほか、小屋で焼死した者もいました。しかし、それよりもはるかに多かったのは、井戸や川に投げ込まれて溺死した人々です。
1946年、新たに独立したエチオピア政府は、イタリア統治時代に50万人の自国民が虐殺されたことを裏付ける証拠を国連に提出しています。