イギリス植民地支配下のケニア:「マウマウ運動」弾圧の血に塗れた物語
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ケニアにあるイギリスの拘留施設の1つ
大英帝国が世界最強国を自称していた時代に、東アフリカのある地域は次第に、植民地時代における最も苦い経験の舞台と化しつつありました。
ケニアは当初こそ、同国内陸部とインド洋に面する海岸州モンバサを結ぶウガンダ鉄道ルート上の単なる交易拠点だったのが、たちまちイギリスの暴力的かつ差別的な政策の実験場となったのです。
肥沃な土地の接収、人種差別法の施行、そして先住民を何の権利もない労働者へと転落させることから始まった政策は、最終的には「マウマウ運動(マウマウ団の乱)」として知られ歴史に残る社会的な爆発へと発展しました。この蜂起は決して盲目的な暴力からではなく、数十年にわたる不正、屈辱、そして土地の剥奪から生まれたものでした。そして、イギリスによるこの蜂起への対応は、20世紀における最も多くの流血を伴う植民地抑圧の一つとなったのです。
19世紀後半、イギリスがヨーロッパの植民地競争の一環として東アフリカに進出すると、ケニアは徐々に帝国の最も重要な植民地の一つとなっていきました。イギリスの進出・駐留は交易路の支配と行政拠点の設置から始まりましたが、モンバサからビクトリア湖(ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大の湖)までを結ぶウガンダ鉄道の建設によって、イギリスの軍事的・行政的支配が強化されていきました。
鉄道の完成後、イギリスはすぐにその主目的へと軸足を移しました。その主目的とはケニアの肥沃な土地を奪い、ヨーロッパ人入植者のための広大なプランテーションに転じさせることでした。後に「白人の高地(ホワイト・ハイランド)」として知られることになるこの政策は、先住民、特にキクユ族から数百万ヘクタールもの最良の農地を奪い取りました。幾世代にもわたってこの地に暮らしてきた先住民は、突如として自らの土地の違法な「住人」にさせられたのです。先住民は、ヨーロッパ人のプランテーションで安価な労働者となるか、植民地支配者によって彼らのために指定された辺鄙で未開発の地域に住むかの、いずれかを選ばざるを得ませんでした。
こうした広範な土地収奪と並行して、イギリスはアフリカ(ケニア)人労働力の完全支配を目的とした差別的な法律制度を確立しました。人々を貧困と依存状態に留めておくための手段として、重税、強制労働法、移動制限、そして「キパンデ(Kipande)」と呼ばれる身分証明書・労働許可証の携帯義務の強制が行われました。アフリカ人は政治参加から排除され、教育や真っ当な仕事へのアクセスも限られていたのです。
こうした重圧や、文化的・人種的屈辱感と相まって、ケニア社会は徐々に深い不満と鬱積した怒りへと突き落とされていきました。土地も明るい未来も持たない多くのキクユ族の若者にとって、尊厳と生存権を取り戻す唯一の道は抵抗でした。こうした空気の中で、伝統的なネットワーク、集団的誓約、そして土地回復の理想に根ざしたマウマウ運動が生まれたのです。実際、マウマウ運動は植民地支配の終結および、没収された土地の返還を目指す政治的・社会的な運動でした。この運動にかかわる活動が拡大するにつれ、英国は1952年に非常事態を宣言し、後に植民地史上最も暴力的かつ暗黒の時代の1つと称されることになる取り締まりを開始しました。
非常事態宣言の下では、数千人が裁判なしで逮捕されました。その多くはマウマウ運動とは何の関係もなく、単にキクユ族に属していた、あるいは疑わしい地域の居住者というだけで拘束されています。こうした逮捕により、非人道的な環境で囚人を収容する強制労働収容所のネットワーク形成の下地が出来上がりました。
011年に英国政府が公開した資料によれば、これらの収容所における拷問は例外的な行動ではなく、組織的なものでした。囚人らは激しい殴打、食事を与えられない、睡眠剥奪、過酷な強制労働という待遇の他、さらには性的暴行を受けていました。ケニアで最も悪名高い刑務所の1つとされるフーラ(Hoola prison)刑務所では、1日で少なくとも11人の囚人が看守に殴り殺されており、これは後に英国植民地時代の暴力の象徴となったのです。
英国の弾圧であまり知られていない側面の1つとして、「再教育キャンプ」の広範な利用が挙げられます。これは表向きは更生と社会復帰を目的に設計された施設だったものの、実際には、囚人が虚偽の自白や忠誠の宣誓を強要され、厳しい体罰に耐える拷問室と化していました。
歴史に残っている報告によれば、これらの収容所のうちのいくつかでは、囚人らは何時間も苦痛な姿勢での静止、泥の中を這うこと、さらには過酷な労働を強いられていました。こうした行為は、イギリスが「抵抗精神を打ち砕く」と呼んだ政策の一環であり、軍事的な鎮圧に加えて、マウマウ運動の心理的・社会的破壊も狙いとしています。
大量処刑もまた、弾圧政策の一環として実施されました。この政策においては、1000人以上のマウマウ運動の構成員が頻繁に、短期間で不公平な裁判の末に処刑されており、この数字は植民地史における政治的処刑の件数としては最多とされています。さらに、軍事作戦、空爆、村落浄化、散発的な衝突によって数千人が殺害されました。
戦闘員と民間人を含む犠牲者の総数は、1万5000人を超えると推定されています。しかも暴力は戦場にとどまらず、家族は引き裂かれ、村は破壊され、キクユ族の伝統的な社会構造は深刻な打撃を受けました。
しかし、マウマウ運動は厳しい弾圧にもかかわらず、ケニアの独立プロセスに大きな影響を与えました。この運動は1960年に事実上鎮圧されたものの、彼らの抵抗は1963年のケニア独立への道を切り開いたのです。当時からの生存者らはそれから数十年後、イギリス政府を相手取り訴訟を起こし、正式な承認と賠償を求めました。
2013年、機密文書の公開と法的圧力を受けて、英国政府は公式な遺憾の意の表明を迫られ、マウマウ運動弾圧中に行われた残虐行為が散発的な事件ではなく、組織的な暴力と弾圧政策の一部であったことを遅ればせながら認めています。

